「さん、の奥さん」
「あら、お隣の。こんにちは」
「これ、私の畑で採れた菜っ葉なんだけど、良かったら貰っとくれ」
「いつもありがとうございます」
「の旦那は、今日も留守かい? このところ遅いねえ」
「ええ、何でも本屋に行っているとか。あの人の道楽ですから」
「道楽、ねえ」
「何てことありませんよ。博打や女じゃないのですから」
「本当にそうかい? いや、何、変な噂を耳にしてね…」
夫の浮気を疑うときはいつ?
家を空けることが多くなったとき? 帰りが遅いとき? 会話が減ったとき?
の夫、は、このところ毎日のように町に出て、帰りも遅く、帰ってきても疲れているようで、食事をしてすぐに寝てしまう。
馴染みの本屋の主人が腰を痛めたとかで、その手伝いをしているとか。
しかし、も不安だったのも、また事実。
帰ってくると、強い花の馨りをさせていたり、湯に入ってきたりと。
そしてとうとう、ご近所の主婦から信じがたい情報を得てしまったのだ。
「お宅のご主人、その本屋で若い女と一緒にいるらしいよ。とても仲良さげでね。本当に大丈夫かい?」
「おかえりなさいませ」
「ただいま。あぁ、疲れたよ。風呂は入れるかな?」
「はい。その間にお食事を用意しますね」
「頼むよ」
の上着を預かり、湯へ向かう夫の背中を見つめる。
昼間、ご近所の主婦から聞いた話が頭の中でぐるぐる廻るが、それを問いただすことなど出来やしない。
はいつものようにを迎え、上着から薫る花の匂いに瞳を伏せるだけ。
「本屋のご主人、まだ臥せっていらっしゃるのですか?」
が本屋の手伝いをするようになって、もう二週間になる。教室のないとき以外は、ほぼ毎日、その本屋に通い詰めている。
「歩けるようにはなったけどね。まだ重いものを持つのは無理そうだよ」
「…私もお手伝いに伺いましょうか?」
「いや、いいよ。本を扱うのは重労働だからね」
「そうですか…」
がのことを気遣ってそう言っているのは解っている。
それでも、自分を来させたくないのかもしれない、という嫌な考えが頭を離れない。
その夜もはすぐに布団に入り、を残したまま眠ってしまった。
食事の片づけを終え、の寝顔を見ながら、は涙が零れてきた。
さん…、私、信じていていいんですよね?
その翌日もまた、は朝早くから本屋の手伝いのため、家を出て行った。
「さん」
名を呼ばれ振り返れば、そこには夫の友人、芹沢がいた。
「随分重そうなものを持ってんなあ」
「お味噌が切れてきたので。ついでにお醤油も、と欲張ってしまったらこんなことに…」
は苦笑いだ。両手に抱える味噌の樽と醤油の一升瓶は、芹沢の言うとおりとても重く、その腕を痺れさせていた。
「貸しな。家まででいいんだろ?」
芹沢はの腕からひょいと荷物を奪い、軽々とそれを片手に抱えた。
「ありがとうございます」
正直助かった。このままで行けば、あと何回、帰路の途中で休まなければいけないか、判らなかったのだ。
「しっかし、こんなものに頼めばいいだろ」
「さん、お忙しいから…」
連日家を空けているに買い物は頼めないし、ろくに会話もしていないには、そのことを話す勇気もなかった。
「? あいつ、何してんだ?」
「馴染みの本屋さんのご主人が腰を痛められたそうで、そのお手伝いに」
「あいつもお人好しと言うか何と言うか…」
「いつもお世話になっている本屋さんですから」
「本の虫だからねぇ、あいつは」
「台所でいいかい?」
芹沢はそう言って、ずんずんと家の中を進んでいく。嘗て知ったる、だ。この家の間取りなど承知している。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「今度からはに頼むんだな。さんの腕が駄目になっちまう前に」
「……、お茶を入れますね。居間でお待ちください」
そうします、とは言えなかった。忙しく疲れているに頼むことも、芹沢にとりあえずでも肯定の返事を返すことも、には出来なかった。
芹沢も気付いていた。
いつも明るく、優しい笑顔を返してくれるが今日は元気がなく、その笑顔もどこか寂しげなことに。
「どうぞ」
「すまねぇな」
の出したお茶はいつもどおりちょうど良い温度で、いい茶葉の馨りを漂わせている。
一緒に出されたお茶請けも、芹沢の好みどおり、甘いものだ。
しかし足りない。
そこにはの明るい笑顔もなければ、邪魔だというように睨み付けてくる家の主人の姿もない。
「は…」
芹沢がその名を出したとき、が体を硬くしたのが分かった。
「…毎日行ってんのかい?」
「お教室のない日は、大抵…」
「いつから?」
「…もう二週間になります」
ハァー。出されたお茶を飲み、芹沢は大きく溜息を吐いた。
全く、大事な奥さんほったらかしにして何をしているんだか。味噌樽なんて女子供の運ぶもんじゃねぇだろうよ…。
味噌樽と一升瓶を抱え歩く女の姿は、芹沢の目にも大変そうに映った。その少し手前で、荷物を置き両腕を揉んでいる姿も見た。
通りで休み休み大荷物を運ぶその姿は、誰の目にも不憫に映ったことだろう。
誰かと思って顔を見てみれば、それは良く知る友人の奥方で、それを知った芹沢は急いで声を掛けたのだ。
周囲で今にも声を掛けようとしていた男共を牽制するように。
自分がこの家に来て、彼女から酌をされるだけでいい顔をしない男が、何故今、彼女を放って置くのか…。
「に言ってきてやろうか?」
「やめてください。さんに頼まなかった私が悪いのですから」
そういう問題でもないだろう。芹沢の目から見ても明らかに、は主人の不在に寂しい思いをしている。
「本屋さんのお手伝いでただでさえ大変なのに、私なんかのことでお気を遣わせるわけには行きません」
「…もうちっと我が儘言ってもいいんじゃねぇか?」
「充分我が儘させていただいていますよ」
この人は…。芹沢は少々呆れた。
女性が往来で男を引っ叩くこの時代に、どうしてこうも謙虚なのか。
育ちのせいか本来の性格かは知らないが、男の前に出ることを良としない。芯は強いのに、いつも一歩引いている感じがする。
に惚れているからこその行動なのだろうが…。
にはもったいねぇな。芹沢はそう思った。
薄暗くなるまでの話し相手をし、宅を出た後、芹沢の足は町中へ戻っていた。
の馴染みの本屋は、芹沢も知っている。一言文句を言ってやろうと、友人の元へ向かったのだ。
「おや、芹沢さん」
本屋に着く前に、帰ってくると会うことができた。
「お前なぁ、こんな時間まで何してんだよ」
「本屋のご主人が腰を痛めて、お手伝いをしていたんですよ」
のすぐ側まで言ったとき、芹沢はその身から馨る花の匂いに気が付いた。の持っている匂い袋の馨りではない。
つい今し方まで一緒にいたの馨りは、もっと控えめな、微かに馨るような柔らかい匂いだ。
しかし目の前の友人から漂う馨りはもっと強く、噎せ返るような花の匂いがする。
「・・・・・・」
鋭いがこの匂いに気付かないはずないだろう。芹沢はの寂しげな顔を思い出し、顔を顰めた。
「…随分いい匂いさせてんじゃねえの?」
「はい?…あぁ、本屋に夾竹桃があるんですよ。古書の埃っぽい匂いを隠すために」
「ふぅん…、夾竹桃ねぇ」
「芹沢さんこそ、目敏いですね」
「誰でも気付くさ」
「そうですか? 家に寄っていきます?」
「いいや。今までお邪魔してたからな」
の顔が面白くないものに変わる。
この友人は大した用もないのにしょっちゅう家にやって来て、と話をしている。
別に嫌っているわけではないのだが、自分の不在時に妻と二人でいたのかと思えば、夫として、それは面白くない。
「そんな顔するくらいなら、もうちっとさんのこと見ててやれよ」
「何のことです」
「今日、重い荷物抱えて大変そうだったから声を掛けたんだよ。他の男が手を出す前にな」
「それは…お心遣いをどうも」
「話はそれだけだ」
芹沢はの「やめてください」という言葉を思い出し、詰め寄りたい気持ちを抑え、その場から去っていった。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。芹沢さんに会ったよ」
「今日、買い物の途中で助けていただきました。荷物を運んでくださって」
「…そんな大荷物だったのか?」
「少しです。でも助かりました」
「次は僕に声を掛けるんだよ? それくらいの時間はあるから」
「暫くは何もありませんよ」
そう言っては微笑んだ。
食事のとき少し会話はしたものの、それでもやはりはすぐに休んでしまった。
寂しい。はそう思った。
普段からおしゃべりに弾むような仲ではない。それでも、と思う。
重い荷物だとか、一緒にいる時間が少ないとか、話す言葉が少ないとか、そういうことではないのだ。
例えば一緒にいるのにすごく遠く感じるような、同じ部屋にいるのにその間に壁があるような。
のことを信じていると同時に、彼を疑っている自分が存在することを寂しく思ってしまうのだ。
彼を見送るたび、遅く帰る彼を迎えるたび、花の馨りを嗅ぐたび、変な噂を耳にするたび、信じ切れない自分がいる。
いつからこんな人間になったのだろう。一番信じたい人を疑うような、こんな。
天気は快晴。取り込んだ洗濯物からは、どれも皆、お日様に匂いがする。
はひとつの上着を手に取った。昨日、が着ていたものだ。
今は石鹸のにおいがする。それでもやはり、昨日帰ってきたときには、むせ返るような強い花の馨りがしたのだ。
「…さん、さん!」
「…え?」
目の前には芹沢がいた。
「あ…、芹沢様…」
「大丈夫か?」
玄関で声を掛けたが応答がなく、庭に回ったところでを見つけた。縁側で洗濯物を畳んでいるようだった。
しかし声を掛けても反応がなく、視線も下を向いたままだった。
すぐ側まで行き、何度か声を掛けて、ようやっとの視線が芹沢に合ったのだ。
「少しぼーっとしていました。天気がいいから」
の笑った顔はとても儚げで、その手に握られたものに芹沢は気が付いた。彼の記憶が確かなら、それは昨日が着ていたものだ。
芹沢の視線がそこにあることに、も気が付いた。
「…駄目ですね。何でもないって…、大丈夫だって解っているのに…、でも私が大丈夫じゃないなんて…」
ぎゅっと着物を握り締めて肩を震わせるを見て、芹沢は立ち上がった。
「芹沢様…?」
無理矢理引っ張る芹沢を何とか宥めて、慌てて戸締りをし、そのまま連れて来られたのが此処だった。
「あの、芹沢様? 私やはりお手伝いのお邪魔をするのは…」
「いーから来い」
目的地はもう、すぐそこだ。の贔屓店で、二週間前から毎日のように通っている本屋、更木堂。
その店の前に大輪の花を咲かす夾竹桃を見て、ここにいることが現実として実感できてしまい、の心が痛んだ。
「大体さんは遠慮しすぎ。もっとこう、構ってくれなきゃ拗ねちゃうぞ、くらいのことをだな…」
「拗ねちゃうって…、芹沢様、可笑し…」
しなを作って頬を膨らませる芹沢の姿が可笑しく、はクスクスと笑い出した。
芹沢は少し照れて、「まぁ、それが出来ないのがさんなんだけど」と、頭を掻き、顔を逸らした。
「クス…、でもそうですよね。少しくらい困っていただいても罰は当たらないと思いませんか?」
「さん?」
芹沢はを連れて、のところへ怒鳴り込むつもりだった。「泣かせてんじゃねぇ!」と。
しかし等のは笑顔で、どこか吹っ切れたような清々しい顔をしている。先ほどまでの儚い、寂しげな雰囲気は、もう無い。
「芹沢様、私、さんに少し意地悪をしたいと思うのですけど、手伝ってくださいます?」
実際の『更木堂』を見て、の中で何かが変わった。
のことを考え、ありもしないと解っていることを不安がっていた自分が馬鹿らしくなった。
あの店の中で、は働いているのだろう。心から店主のことを心配して。
そんなことはにも解っている。おそらく夾竹桃の馨りはあの木のせいで、湯に入っていたのだって、重労働で汗を掻いたためだろう。
疲れているのも本当だろうし、女性にしたって他の従業員か何かなのだろう。
それでもが寂しい思いをし、不安を覚えたのは紛れもない事実なのだ。
それならば、とは決意をした。
控えめで大人しいと称されることの多いだが、実際の所、そればかりではない。
父母を亡くした後、ほとんど知らない親戚の家で生活してきた。
その中で、何度意に沿わない結婚を迫られようと決して首を縦に振らなかった。
それどころか康嗣の借金や女の後始末をするため、市塚の部下と共にだが、怪しいところに赴き、元締めと話を着けたこともある。
何より一番怪しい、あの市塚を慕っているのだ。
彼のところに出入りする目つきの鋭い男達に比べたら、どうして真っ当な本屋に臆することがあろう。
が恐いのは、ただひとつだ。
に嫌われてしまうこと。
市塚に勧められて嫁いだだったが、の心の中で既に、は一番の大きさを閉めていた。
ただ待っているだけなど、自分の性分ではない。
「男を魅せるような女になれ」と、市塚のお爺様は言っていたではないか。「男を動かす女になれ」と。
「殿方に追いかけるように仕向けるのくらいの女子でなければいけませんよ」と言ったのは、母だった。
さんの言葉を信じよう。あの人は言ってくれたではないか。
「寄って来る者は目に入らないし、が去ったら必死で追いかけるよ?」と。
夾竹桃が聳え立つ更木堂を目の前に、はその不安な思いを打ち消すように、一歩、前へと踏み出した。