これは私の賭け。
私がどんな思いをしていたか、知ってください。
それで、もし、あなたに嫌われ、愛想をつかされてしまうようなら、私の負け。そんなことになってしまったら、耐えられない。
でも、もう、独りでいるのは、嫌なのです。
「ごめんください」
「はぁい」
中から出てきたのは、女性だった。や芹沢と同年齢とも思えるその女性は、優しげで、夾竹桃の馨りを纏っていた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「挿絵の入った読みやすい物語の本を探しているのですけど、何かお勧めのものはありませんか?」
「そうですねぇ…」
「喜久子さん、奥の書棚の整理は終わりましたよ」
「あぁ、さん。ご苦労様です」
奥の古書の整理が終わり、店の中へ戻ってきたが見つけたものは、自分の目を疑うものだった。
振り返った喜久子の体の向こうに見えたのは、仲睦ましげに腕を組む、自分の妻と友人の姿。
「あぁ、挿絵の入った物語でしたね。それなら…」
腕を組む二人に向かい、再び話し始めた喜久子の脇を、が無言のまま通り過ぎていく。
「さん?」
それに気付き喜久子が声を掛けるが、の耳にその言葉は入ってこない。彼はただ、自分の先にいる、二人の姿だけを見ていた。
「よう、」
「あら、お知り合いでしたか」
「…何をしているんです」
「何って、なぁ?」
無表情のの顔を見ていることが出来ず、助けを求めるように芹沢はを見た。
だがその図は、から見れば、二人の親密さを現すように見え、ますますその心を怒りに燃やしていった。
「芹沢様とお会いしたので、買い物に付き合っていただいています。ね?芹沢様」
は芹沢を見上げ、もう一方の手を絡ませていた芹沢の腕に重ね、微笑んだ。
「・・・・・・、喜久子さん」
「は、はいっ」
今まで聞いた事のないような、低く冷たいの声に、喜久子は驚いた。
喜久子の知っているはとても穏やかで、どんな重労働も笑顔でやってくれるような人だ。
「申し訳ありませんが、急用が出来ましたので、今日はこれで失礼します」
は喜久子の方を一度も見ないまま用件だけを伝え、芹沢に寄り添っていたの体を強引に離した。
そしての体を抱えるように引っ張ったまま、店を出て行った。
「・・・・・・、どうされたんでしょう」
「…彼女は、の奥さんです」
「えぇ!?」
驚いた。喜久子はてっきり、二人は夫婦だと思っていた。仲睦まじく腕まで組んでいたのだから当然だ。
芹沢は恐ろしくなった。あんな怒ったを見るのは久しぶりだ。
の身を案じつつ、明日は我が身、と、暫く宅に出入りするのをやめようと決心した。
「さん、…放してください。痛いです!」
に引き摺られるように歩くは、自分の足取りさえ覚束ない。肩をつかまれたの力が余りにも強く、は訴えた。
しかしはそれを聞き入れず、無表情のまま歩みを進める。
いつもはの歩調に合わせゆっくり歩いてくれるだが、今日はとても早足で、のことなどまるで気に掛けていないようだ。
二人が暮らす宅の玄関の扉を閉めたところで、はようやっとの身体を放す。
だが、がホッとしたのも束の間、は草履を脱ぎ、まだ玄関で呆けていたの身を横抱きに抱え上げ、歩き出した。
「さん…っ、降ろしてください!」
必死に身を捩るだが、はさらに腕に力をこめ、しっかりと抱いた。
奥の、寝室に使っている部屋の前まで来て、は足を扉に掛ける。
バンッと大きな音を立て、扉は開き、そして再び大きな音を立て閉められた。
「・・・・・・」
は少し怖くなった。が怒っているのは判る。だが、こんな乱暴なは今まで見たことはがない。
部屋には何もない。明かりを燈すための蜀台と小さな机があるだけだ。布団は押入れの中にしまってある。
その部屋の中央には腰を下ろした。を抱えたままで。
「…さん?」
「何のつもりだ?」
「え?」
の声は冷たい。何の感情も見えず、ただ、低く、深く、冷たい。肩を掴んでいる手も痛い。
「芹沢さんと何をしていたんだ」
「さっきも言ったはずです。お買い物に付き合っていただいただけです」
「君は買い物に付き合っただけの男と腕を組むのか?」
あれはがに自分の気持ちを分かってもらうために、芹沢に頼んだものだ。彼は最後まで嫌がっていたが、渋々協力してくれた。
とだって腕を組んだことなんかないのだ。
「私もお伺いしたいことがあります」
「今は僕が」
はに話を続けさせなかった。
「先ほどの女性はどなたですか?」
「え?」
「遅く帰って来られて、お食事やお風呂を済ませているのはどうしてですか?」
「それは向こうで是非にと…」
「ご近所の方に、さんが他の女性と親しくしていると言われました」
「そんなことあるわけないだろう!」
「そんなことは解っています!」
はもう涙を堪えることが出来なかった。今まで抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出し、止める方法を知らなかった。
「解っているんです。でも、さんが夾竹桃の馨りを纏って帰る度にすごく寂しくて、信じているはずなのに不安で…」
の腕の中で、の膝の上で、は声を震わせていた。久しぶりに触れた彼の温もりだというのに、何故かそれを喜ぶことは出来ない。
「側にいても遠くにいるみたいで…、この二週間、ずっと独りでいるみたいで」
寂しい思いをさせていることは、自身もすまないと思っていた。我が儘を言っていることも、甘えてしまっていることも。
それでも心優しいのことだから許してくれる、と。知人のために動く自分を見守ってくれている、と。
は震えるを優しく抱きしめた。
「…、僕の我が儘のせいで寂しい思いをさせてしまったね」
「やっぱりさんは解っていません」
「?」
「さんがご店主のためにお手伝いをされているのは、素敵なことです。一緒にいられる時間が少なくても、構わないんです」
は顔を上げ、溢れ出ていた涙を懸命に堪え、の顔を見てはっきりと言った。
「私が悲しいのは、寂しいのは、さんが私を見てくださらないことです」
「僕はいつも君の事を考えている」
の言葉に、は首を振った。
「…一昨日、私と話したことを覚えていますか? その前は?」
昨日は確か、芹沢と出かけたことを話していて、次は自分に言うように言ったはずだ。一昨日は…、その前は?何か話をしただろうか。
は思い出せず、言葉を失った。
「私が右脚を痛めていたことをご存知ですか?」
「え?」
「明日がどんな日か、覚えていらっしゃいますか?」
「明日…?」
は静かにから離れた。力の入っていない腕から抜けることなど、容易かった。
の前に正座をし、手を畳につき、頭を下げた。
「お忙しいときに申し訳ありませんが、暫くお暇させてください」
「?」
の口から出た言葉に唖然とした。今、彼女は何と言った?
「市塚のお爺様の喜寿祝に呼ばれています。数日家を空けることをお許しください」
の返事も待たず、は部屋を出て行った。
暫くして、耳に聞こえたのは、玄関戸の音に、 は、漸く、我に帰った。
は今、何を言ったのだ…?
暇をもらいたい、確かにそう言った。市塚の喜寿祝…?
は唖然とした。自分の情けなさに、その愚かさに呆れてしまった。
忙しさにかまけて、慣れない仕事をする自分に精一杯で、日付を数えることなど忘れてしまっていた。
「こんな日にが嫁ぐなんて、一番の誕生祝だ」
一年前、市塚の言っていた言葉が甦ってくる。市塚の喜寿祝…、それはつまり、がの元へ来て、一年に当たるということだ。
結婚記念日を祝うなどという習慣は、この時代にはない。
それでも、これまでの一年に感謝をし、これからの二人を確かめる、大切な日には変わりない。
この二週間、更木堂に通うようになってから、とまともに話をしただろうか。
疲れのせいにして、「明日聞くよ。もう休む」と言ったことが、何度あっただろう。の言う「明日」なんて、一度も来ていないというのに。
慌てて家の外に出たが、もう遅かった。右を見ても左を見ても、の姿はなかった。
呆然としたまま、戻った家の中に、は違和感を覚えた。
あぁ、一人がいないだけで、どうしてここは、こんなにも異質なのか。
一年前までは一人だったはずだ。これまでの二十余年に比べれば、とても短い、ほんの一年のことだというのに。
いつの間にか彼女がいることが当たり前になり、自分しかいないこの家は、もう別のものにしか思えなかった。
更木堂に戻れば、の代わりに芹沢が働いている。腰を痛めた店主の指示を受け、右へ左へと本を運んでいた。
「先ほどは申し訳ありません」
仕事を放り出し、いきなり出てきてしまったことの侘びを、は店主と喜久子に告げた。
「気にしないでください。それより、奥様、大丈夫でしたか?」
「まぁ…」と、心配する喜久子には曖昧な返事しかできなかった。
「さんに奥様がいたなんて、私全然知らなくて…」
当然だ。はここの常連であるが、ここで私生活を話すようなことなどない。ここで話題になるのは、いつも本のことだけだ。
の家から離れたところにあるこの店では、ただ書を教えているだけの男の結婚など、噂になりもしないのだから。
「お礼のつもりで食事だ風呂だ、なんてやってたけど、さんの奥さんに悪いことをしちまったねえ」
「気にしないでください。私たち夫婦の問題ですから」
店主に微笑んで見せただったが、芹沢は長年の付き合いから、その笑顔が本物ではないことに気がついていた。
「店もだいぶ整理されましたし、主人も良くなりましたから。今まで本当にありがとうございました。とても助かりました」
そう言って頭を下げた喜久子とそれに倣った店主に挨拶をし、と芹沢は店を後にした。
無言で歩くの横で、芹沢は酷く居心地が悪い。
「…さっきのはなぁ、別に何かがあったわけではなく、さんに、だなぁ…」
「解っていますよ。芹沢さんがに何かをするとは思っていません」
そう、芹沢とに何かがあるなどと、有り得ないのだ。例え夜中に二人きりでいたとしても、何も起り得ないだろう。
それはがの妻であり、芹沢が友人である限り、ないと断言できる。
がを裏切ることなど有り得ないし、芹沢もまた、友人の想い人に手を出すような人間ではない。
「…でも、俺とさんが来たとき、お前は怒っただろ?」
怒ったなどというものではない。腸が煮えくり返り、すうっと自分の体温が冷めていくのを感じた。
「つまり、そういうことなんだよ。幾ら有り得なくて相手を信じていようと、それでも不安になっちまうのさ。男も女もな」
が怒るのを分かっていても芹沢がに協力したのは、この不器用で鈍感な友人にそれを知ってもらいたかったからだ。
今まで女性と浮名を流してきたというのに、こと本気の恋愛ごとに関しては、初心者もいいところだ。
おそらく、淡い初恋や憧れなどを除けば女に惚れたなどというのも初めてだろうし、本気で付き合ったことなどないだろう。
隣にいる友人はいつもどこか冷めていて、何かに執着することなど殆どない。その友人が初めて自分から欲しいと思った女がなのだ。
市塚という祖父の友人の話に出てくる少女に興味を抱き、親戚の家での処遇に憤りを感じ、自分から会いたいと言い出した。
一目会い、その興味は恋心へと変わり、愛情へと変わった。
ひとりの女をあそこまで大切に思っている友人の変わりように、芹沢は驚きを覚え、喜びを感じていた。
だからこそ、この二人には喧嘩などせず、いつでも仲睦まじい夫婦でいて欲しい。芹沢は心からそう思っている。
「…で、本当のところ、さんは?」
「…出て行きました」
「は!?」
請われたとは言え、自分のしたことの結果に芹沢は驚いた。
「市塚さんの喜寿祝で、数日家を空ける、と…」
数日…、本当にそれで済むのだろうか。その数日を過ぎれば、また以前のような他愛もない日々が戻ってくるというのだろうか。
芹沢は不安になり、の顔を覗きこんだ。
「…まさか、このままにしておくつもりじゃないよな?」
「まさか」
芹沢は少し安心した。の顔は悲しみや後悔ではなく、何かを決意しているときの顔だった。
この男がこういう顔をしているときは、呆れるほど粘り強く、しつこいことを長年の付き合いから知っていた。
きっと今頃、彼の頭の中ではを取り戻す算段が、芹沢の及びも付かないほどの速さで組み立てられているのだろう。
も彼に愛想をつかしたわけではない。そうでなかったら、あんな行動は取らないだろう。
またあの柔らかい、温かい日々が戻ることもそう遠くはない。
その懐かしい、近い未来の日々を頭に思い描き、芹沢はと別れた。
我儘な女だと、癇癪持ちの妻だと、愛想を付かされてしまうでしょうか。
でも、これは、私の賭けなのです。
さん。
あなたは、本当に私を追いかけてくれますか?
寂しいと、叫び、家を飛び出した愚かな女を、それでも愛しいと思ってくれますか?
あなたの瞳に、私の姿を、もう一度、映してくれますか?