狐
闇夜を飛ぶのは、黒装束。白く浮かぶのは、天の月と狐面。
「…っ!」
里の夜警から帰り、月夜の中、の部屋にそれを見たとき、カカシは思わず、構えていた。
しかしすぐに、その違和感に気付き、それを手に取った。
「…びっくりした」
「ただのお面よ。駄菓子屋で見つけたの」
物音と強い気にが目を覚ませば、暗闇の中でそれを持っているカカシに気が付いた。
「何でこんなもの、買ってきたのヨ」
「何か懐かしくなっちゃって」
カカシの手からそれを取ったが、カカシに寄りかかる。
「懐かしい、って…、暗部が?」
の手の中には、狐を模した面。
暗部のものであるそれとは異なる、子供用の玩具である、薄っぺらい小さな狐のお面。
「そうじゃなくて…、思い出さない?初めて会ったときのこと」
「新入りだ。面倒見てやれ」
隊長が直々に連れて来たその小柄な狐面に、部隊長だったカカシは小さく頷いた。
これから向かう任務は、隠密行動だが、暗殺ではない。新人の最初の任務としては、適切なものだろう。
噂は聞いていた。
中忍の中から、暗部々隊長自ら引き抜いた人物がいる、と。
隊長自ら連れて来たということは、おそらく、この子供ともいう年齢の忍が、その人物なのだろう。
暗部の初任務、小隊長はカカシだった。
小さな鳥を操り、邸内の偵察を終えたは、その様子を隊長であるカカシへと報告した。
静かにその報告を聞くカカシの前では、に従うように、その肩に一羽の鳥が止まっていた。
数刻前に邸内へと飛び去ったときとは違い、その鳥の容貌は瞳が三つという異様なものだった。
甘えるように彼女の首に擦り寄るその鳥に、はそれに応えるように指を差し出す。
「ありがとう」
彼女がそう囁けば、小さな煙と共に、その鳥は姿を消した。
口寄せ、忍鳥。
暗部々隊長から教えられたの情報から、彼女の操る忍鳥が一羽ではないことを、カカシは知っていた。
「で、どうだ?初任務の出来は」
最恐と恐れられる上司の前で、カカシは任務報告書をその机に投げ出した。
「なぜ今まで隠していたんです。彼女が暗部に入ったのは、もう一年も前だと聞いています」
「じゃ、合格か?」
面の中で楽しそうに笑う男に、カカシは頷いた。
年は十三になったばかり。だがその実力は、おそらく今日隊を組んだ他の忍にも負けないだろう。
経験の足りなさから来る未熟さはあっても、この先が期待される忍には変わりない。
「つまんねぇな。もう少し遊びたかったんだが…。仕方ねぇ、本格的に任務に出すか」
どこか残念そうに言う男の言葉に、カカシはこの男を師匠に持った少女の運命を嘆いた。
実力はある。暗部々隊長まで上り詰めた男だ。その実力に異議を唱えるものはいない。
だが、それに性格が伴うかと問われれば、否だ。
暗部養成所の候補生を二人潰し、この男に耐え切れずに暗部を辞めていった忍もいる。
そんな男に一年間も遊ばれた彼女は、今もまだ精神を保っているのだろうかと、カカシが心配したのも無理はない。
だがそんなカカシの心配を他所に、はその頭角を表していった。
十三歳の少女が、十八歳の女に変わるように。
中忍になりたての忍が、上忍になるように。
カカシが暗部を辞めるとき、は暗部の中隊を任されるまでになっていた。
「!」
任務の報告を終え、狐面を外した彼女は、帰り道、聞き覚えのある声に耳だけを傾けた。
彼女に声をかけた男は、足を止めない彼女の隣に並ぶ。
「任務、お疲れさま」
「あなたもね、カカシ」
一向に速度を変えないの足に、カカシが合わせる。
「呑みに行かない?」
「任務明けで疲れてるの。休みたいわ」
「呑んだ方がよく眠れるんじゃない?」
そこに含まれる別の意味合いに気が付いた彼女は、少し考えた後、隣を歩く男に初めて、顔を向けた。
「……いいわ」
「はい」
薄暗い部屋の中、カカシから渡されたのは、ただの水だ。
カカシが手にするのも、と同じように、ただの水。
「呑みに行こう」とこの場所へ来た二人が飲むのは、酒ではない。
カタンと、どちらか一人がコップを置けば、それが合図だとでも言うように、二人は近付く。
「ん…っ」
突然来る刺激にが声を漏らせば、カカシはそこばかりを責め続ける。
彼女が高みに昇りつめる寸前になるまで、しつこく、緩急をつけて。
カカシが「呑みに行こう」と誘い、がそれを承知すれば、それは即ち、別の密戯を意味する。
酒を酌み交わすことなど、ほとんどない。
彼らが交わすのは、お互いの熱と、抱えきれない感情。
そこに未来があるわけでも、約束があるわけでもない。
彼らはただ、こうして肌を合わせることで、独りではないのだと実感するのだ。
他人が与えてくれる熱は、生きている証と心地よい疲労を与えてくれる。
何もかも忘れ、快楽だけに溺れ、例えその一時だけでも。
そのためだけに、二人は身体を重ねるのだ。
「、もう一回いっとく?」
クシャクシャになったシーツに横たわる白い背中に口を寄せつつ、カカシは甘い声で囁いた。
だがその瞬間、熱に侵されていた彼女の肌が、スーと冷めるのを、カカシも感じた。
「やめとくわ」
今までの情事がなかったかのように、彼女は冷めた肌で服を身に付けていく。
そうして何の言葉を交わすこともなく、その部屋を後にするのだ。
暗くなった町並みをゆっくり歩くは、心地よい疲労感の中にいた。
冷たい夜風が、まだ身体の奥底に残っている熱を冷ましてくれる。
気分がいい。
この後任務をしろと言われても、それをこなすだけの体力も気力も残っている。
このまま家に帰れば、そのまま夢の中へと落ちることが出来るだろう。
この感覚が欲しくて、実のない関係を止めることができないのだ。
愛がないことは、解っている。
ここに愛があれば、もっと違う何かを得ることが出来るのかもしれない。
それでも、今は忍であることが一番だから、それを邪魔する感情は必要ない。
別に相手がカカシである必要はない。
でも、たまたまそんな気分のとき、彼は私の前に現れる。
何かを忘れたいとき、燃やし尽くしたいとき、生まれ変わりたいとき、何故か彼はそこにいる。
「くそ…」
独り残された部屋の中で、カカシはシーツに顔を埋め、呻る。
そこに残されたのは、色濃く残された情事の跡と、僅かに残った彼女のぬくもり。
いつからか、なんて解らない。
こうして一人残されることが、どうしようもなく切ないのは。
「私と寝てくれない?」
そう言った彼女に感じたのは、ただの興味と好奇心。
イロの修行で彼女に覚えたのは、とてつもない嫌悪感。
そして今、一人残った部屋で胸を締め付ける、刹那。
いつからだろう。
彼女の身体に他の男の痕を捜すようになったのは。
彼女の寝顔を見ることを望むようになったのは。
彼女の心さえも欲しいと思うようになったのは。
何がきっかけで、何が始まりだったのか。それさえも判らない。
ただ解るのは、でなくては駄目なのだということ。
あの辛く、刹那な時間から数年後。
二人の間の仮面が消え、永遠だと思われた片思いが終わった今、男は愛しい女を呼ぶ。
「おいで、」
恋人が奏でる甘い囁きに、彼女はその身を男に預けた。
交差する瞳は優しさに溢れ、交わされる口付けは快感だけではない、愛情を含んでいる。
身体を重ねるのは、お互いの存在を刻み付けるため。
熱を与え合うのは、そこにある愛しさを伝え合うため。
「狐面、俺は嫌い」
「どうして?私達の思い出だわ」
カカシが放り投げたおもちゃの狐面は、カランと音を立てて床に転がった。
狐面が憎いわけではない。これがなければ、彼女と出逢うことはなかったのだから。
それでも、カカシがこの狐面で思い出すのは、果てしない一方通行の刹那な感情。
こうして愛しい女が自分の腕の中で微笑む今、仮面は必要ない。
真剣な顔をして何も答えないカカシの頬に、は優しい口付けを贈った。
「狐面がなければ、私はカカシに会えなかったかもしれないわ」
「狐面がなければ、あんな長い間、片恋することもなかったかも」
「……」
目を丸くしたに、カカシは不機嫌な顔を隠そうともしない。
「知ってた?ちゃん。俺、ずっと君に片思いしてたのヨ」
はそっと、カカシの首にその腕を回し、逞しい肩に顔を預けた。
「…知ってたわ」
カカシが出していたサインに気付かないほど、は鈍いわけではなかった。
身体を重ねる度に、微かに気付かされるカカシの想いに、わざと気づかない振りをしていただけだ。
忍であることに、邪魔な感情だと信じていたから。
それでも、何故かカカシ以外の男と寝たことはなかった。
たまたま都合の良い時間に、場所に、カカシが居ただけのことかもしれない。
だが、それを「運命」と呼ばずして、何と呼ぼう。
狐面のが、狐面のカカシに声を掛けたときから、それは始まっていたのかもしれない。
私と寝てくれない?
何て傲慢で、何て自分勝手な頼み方。
私はただ、修行のためにだけに、初めて知る男を捜していたのだ。
最低な女。
「ちゃん?」
自分の肩に顔を埋めたの表情をうかがい知ることは、カカシにはできない。
それでも、自分の腕の中で冷めた身体をしている彼女に、過去を思い出した。
「ねぇ、カカシ」
「?」
「私と、寝てくれない?」
一瞬にして遠い過去へ連れ戻されたカカシには、の肩越しに見える狐面が、嘲笑っているように見えた。
カカシはきっと、あの瞬間を思い出す。
そんなの予想通り、自分を抱くカカシの身体が固まったのが判った。
ごめんなさい、カカシ。あのときの私、最低だった。
誰でも良かったの。ただ、私より強くて、後腐れがない、嫌いじゃない相手なら、誰でも。
カカシにあんな最低の頼みごとをしたのは、ただ、イロの修行の話を聞いて、一番初めに会った、「そうなってもいい」相手だったから。
ごめんなさい。
だから、あのときからやり直したいの。
そんなことはできないかもしれないけど、思い出を重ねることはできるでしょう?
固くなったカカシの身体に一層強く抱きつき、は耳元で囁いた。
「貴方が愛しくて、死んでしまいそうなの」
「だからお願い。私と寝てくれない?」
カカシの腕がの顔を挟み、その瞬間、二人は熱い口付けを交わした。
徐々に乱れていくの息を飲み込むかのように、カカシはその口内を楽しんだ。
「…んふっ、…っあ……!」
苦しくなったに背中を叩かれ、カカシは漸くその唇を解放した。
二人の間には、その口付けの激しさを物語るかのように、どちらのものとも判らない透明の糸が一筋。
距離に負け、それが途切れた瞬間、はカカシを睨みつけた。
「…っはぁ、苦しいじゃない」
顔を真っ赤にしたの目に飛び込んできたのは、満面の笑みのカカシだ。
「俺も。嬉しすぎて、死んじゃいそうかも」
お互いの顔を、表情を、その心を隠す必要はない。
そんな関係が今、ここにある。
月でさえ、その顔を雲の中へ隠したというのに、床に転がった狐面だけは、その様を見ていた。
お互いの心を確かめ合い、与え合う、一組の男女の姿を。