肆 利用
亥の二刻に店を閉め、片付けを行うと、が家路に着くのは日付を跨ぐころになる。
繁華街も灯りを消す店が増え始め、通りは暗くなる。
そんな時間に里を歩くことは、平和なこの時代でも、普通の女子供はしない。
それでも、は何も気にしていなかった。
忍をしていたときは昼間より夜の方が動きやすかったし、警備のときはもっと遅い時間に里を回ったこともある。
火の始末と戸締りをし、暗い夜道を歩いていたその日も、は何の恐怖も不安も感じていなかった。
月明かりが頼りの暗い通り。
和服姿の妙齢の女性が一人で歩いていれば、それに声を掛ける男がいても、不思議ではないのかもしれない。
足元をふらつかせながら、月明かりでも判る赤い顔をして、男が近付いてきたときも、気にしていなかった。
酔っ払いがこの界隈にいることなど、何の不思議もなく、その気配から一般人だと判っていたからだ。
「お嬢さぁん、独りでどうしたのぉ?」
「ハハハ、寂しいでしょ〜。俺らが送ってあげようかぁ?」
フラフラしながら、何が可笑しいのか笑っている3人組の男たちに、は丁寧に返した。
いつもなら無視するところだ。
だが、相手が誰であるかを確認したは、丁寧にその場に立ち止まった。
「お心遣いありがとうございます。ですが、家はすぐですし、お気遣い頂かなくても大丈夫です」
頭を下げ、再び歩き出しただが、男たちが後をつけて来ているのは判っていた。
少し離れた場所から、笑い声を隠そうともせず、男3人が、の後を追っていた。
どうしようかしら。このまま真っ直ぐ家に帰るのは、危ないわよね…。
ゆっくりと歩きながら、徐々に近付いてくる自宅に、は方向を変えようかどうかと、悩んでいた。
いくら右脚が言うことを聞かなくても、酔っ払い3人程度ならどうにかできるだろう。
それでも、その3人組の内の一人、中心にいた人物の顔を知っていたは、それもどうかと思っていた。
この歓楽街一の大店、松屋の一人息子。その馬鹿さ加減とだらしなさは有名だが、それでも権力者の息子には変わりない。
が店を出してまだひと月。今、あの大店を怒らせるのは得策ではない。
さて…、どうしよう。
歩みを止めれば、男たちは襲ってくるだろう。かといってこのまま家に帰っても、危険なことには変わらない。
ただでさえ遅い歩みを更にゆっくりにした、その時だった。
一瞬の気配の後、そのすぐあとには、隣に、彼がいた。
「カカシ…」
「遅いからね。迎えに来たよ」
にっこりと笑い、を促すように腰に手を回し、歩き始めたカカシに、もびっくりしながら歩みを元の速さに戻した。
「…どうやら諦めたみたいだな」
カカシのその言葉に、も頷く。
3人組の男達は、少し前に元来た道を戻り始め、その気配が消えていった。
男連れと知って諦めたのか、それともその男の正体を知って諦めたのか、それは定かではないが、
後をつけられていないことには、も、カカシも気が付いていた。
「助かったわ。ありがとう」
「どういたしまして」
男達がいなくなっても、腰に回した手を離さないカカシを、は歩きながら見た。
「でもどうしてここに?」
「家に行ったらまだ帰ってなかったからね。待ってようかとも思ったけど、迎えに来て良かったよ」
「ありがとう」
再び礼を述べながら、は、また無断で家に入ったのね、と、思う。
この男相手にいくら鍵を閉めようと、無駄なことだ。結界でも掛けない限り、無断侵入を防ぐことはできないだろう。
家の扉を開け、中へ入った途端、カカシに抱きかかえ上げられた。
「ちょっと、何?」
の問いかけも無視し、カカシはそのまま奥へと進んでいく。
決して広くはないその家を、自分の家のように、迷いなく進んでいく。
が降ろされたのは、何故か既に敷かれていた、布団の上だった。
が持っていた荷物を、カカシが取り上げ、そのまま首筋に唇を寄せていく。
「…お風呂くらい、入らせてくれない?」
「後でね」
後ろに回した手で帯を緩め、着物の合わせを大きく開きながら、カカシはの肌に痕を付けていく。
そんな様子のカカシには小さく溜息を吐き、自分の手をその銀髪に差し込んだ。
額当てをとり、口布を下ろすと、いつもは隠されている綺麗な顔が、傷の中にある赤い瞳が顕わになる。
その美しさにが胸を高鳴らせているうちに、徐々に近付いてくるカカシの唇を、は素直に受け入れた。
促されるままに唇を開き、侵入してくる彼の舌にも抵抗はしなかった。
恋人。惚れた女。
そう言ったカカシに、は未だ、何の反応もしていない。あのとき、一度自分の意思を伝えただけだ。
それでもカカシはの家を訪れ、もそれを咎めない。
重なる唇にも、触れてくる手にも、は拒まない。ただ、受け入れるだけ。
恋人なわけではない。カカシは何度もその想いを告げるが、それにが応えたことはないのだ。
このままではいけない、と、は解っている。
忍と付き合えない以上、ただ悪戯にカカシに期待させているだけだ、と。
それでも、拒めないのだ。
カカシによってもたらされた熱にまだ気だるい身体を布団に預け、重くなる瞼を堪えながら、隣で眠る男を見る。
ごめんなさい、カカシ。ひどいことをしているのは、解ってるの。
でも、このどうしようもない温もりが、恋しくて仕方がない。自分ではない体温が、手放せないの。
独りでも生きていけるつもりだった。
家族を失ったときから、独りで生き、独りで死んでいくつもりだった。
それなのに、忍という生き方を捨てた私は、情けなくて、臆病だ。
誰かに求められることを、誰かに包まれることを知ってしまった私は、こんなにも弱い。
ごめんなさい。
私は貴方の想いを利用しているだけ。
この心地好い関係に甘えているだけ。
貴方の気持ちには応えられないのに、それでも貴方を手放せない。
ふと、目を覚ますと、自分の腕の中に愛しい女がいた。
穏やかな寝息を立てて、夢の中にいるの頬に手を当て、そこに掛かっていた髪を避けてやる。
初めて会ったのは、暗部だった。優秀なくノ一がいることは、噂では聞いていた。
狐面越しの対面には何も感じなかった。
それから何度か一緒に任務に当たり、その成長振りに驚いたのを覚えている。
「私と寝てくれない?」
そう言ってきた彼女に、何の躊躇いもなく、その申し出を受けた。
スタイルは良かったし、面越しの素顔にも興味があった。まぁ、それを別としても後腐れがなさそうだったから、別に良かった。
女の誘いを断ることはしない。相手が面倒臭くない相手なら、だが。それなりにイイオンナなら、特に、だ。
簡単にやられるつもりはないが、忍である以上、その覚悟はしているつもりだ。
だからこそ、後腐れのない女がちょうど良かった。
それがどうしてこんなことになってしまったのか。
一人の女に執着し、「忍とは恋愛しない」と言う女に、本気でイカレテル。
そんな素振りも見せず俺に身体を開いた女は、処女で、微かに震えるその身体が可愛らしいと思った。
色修行の実践で、相手役になったのは、俺が名乗りを上げたからだ。
既に暗部で活躍している彼女の相手なら、ということで、別に何の障害もなく俺の申し出は受理された。
数週間前に処女を捧げた男を相手に、震えも恐れもなく、誘惑してくる彼女に、はっきり言って吐き気がした。
きっとこの女は、任務のためならば、何の躊躇いもなく敵を誘惑するのだろう。この俺にしているように…。
そう思ってしまった瞬間から、俺は既に囚われてしまっていたのかもしれない。
「が大怪我を負って帰ってきた」
その話を聞いたとき、俺は恐怖と同時に、僅かな安堵感も覚えた。
これで暫くは、病院にいる。危ない任務に就くことも、他の男に触れられることもない。
そう思ったのも、紛れもない事実だ。
常にさらしで覆われている右足を見るたびに、悲しい気持ちが起きるのも事実だ。
だが、それを見るたびに、安心するのも事実だ。彼女を自分の下に繋ぎ止めておく鎖のような気がする。
忍を辞めたことにも、少々の無念は残る。は優秀な忍だったから。
それでも、俺は別に良かった。
それほど多くない『イロ』を含んだ任務にが就くたびに、吐き気と憤りを感じることもなくなる。
どうしようもない感情をぶつけるように、他の女を抱く必要もなくなる。
自分がいない間に、他の男に触れられていないかと、不安になる必要もない。
彼女を抱くたびに、他の男の痕がないかと、必死で探る必要もない。
「忍とは恋愛しない」
別に構いやしない。それならば、他の忍の男を気にする必要がなくなる。
忍じゃない男が俺の目を潜り抜けて、に近づくことは不可能だ。
別にいい。
永遠の片思いでも、彼女が俺のものならば、それでいい。
忍という世界を捨てたの、心の隙間を厭らしく利用している。
彼女の傷も、空虚も、全てを利用している。
それでも構わない。
卑怯でも、卑劣でも、陋劣でも、惰弱でも、彼女が俺の腕の中にいるなら、それでいい。