伍    曖昧な関係





何の変哲もない、ただのいつも通りの日常だった。



最初に異変に気が付いたのは、店を訪れたアスマだった。

いつものように、酒を呑みながら、そこで夕食を済まそうとしていた。
だが、店に暖簾は掛かっていなく、鍵も閉められたままだった。
開店時間は過ぎているのに、【準備中】の札が下げられたまま。【休日】の札ではなく。
訝しくは思ったものの、開店時間が遅れているのか、と、大して気にも留めなかった。
そのまま、他の店へ行き、そのまま家路へついた。

翌日、待機所で他の仲間と会ったとき、その話となった。
アスマよりも遅い時間、店を訪れたその上忍も、【準備中】の札を見ただけだと言う。
アスマが見たときと同じまま、暖簾も灯りもなく、静まり返っていた、と。


そんな奇妙な話題の最中、任務明けのカカシが待機所に顔を出した。

アスマからその話を聞いたカカシは、そのまま待機所を飛び出し、店へと向かう。
店はやはり【準備中】の札が掛けられたまま、アスマたちの話のままだった。
そのまま自宅へと足を運び、いつものように鍵を難なく開け、中へ入った。
体調でも崩して、伏せているのかと思っていた。

だが、その部屋の中の住人はおらず、布団が敷かれた形式もない。
カカシが知っているその部屋の姿のまま、静かだった。
いつものように、綺麗に片付けられている。ただ、いつもと違い、人の気配すら、何もなかった。


こうして彼女、の失踪が発覚したのは、事件が発生してから丸1日以上経った後だった。




「里の八百屋で買い物をして、その後、店の方へ向かったのを八百屋の店主が確認しています」
「ふむ…、それがが確認された最後ということじゃな」
火影の部屋には、里での探索の結果を報告する中忍・上忍たちと、それを受ける火影、そして面を付けたままの男がいた。
大の大人が行方を晦まし、凡そ1日。それにしては大層すぎる騒ぎになっている。

「探索隊を編成しますか?」
「ふむ…」
上忍の言葉に、火影も悩んでいた。

依頼があったわけではない。里の一般人ひとり、しかも立派な大人が一日以内程度の行方不明で、大騒ぎするわけにもいかないのだ。
ただ、失踪者はただの一般人ではない。辞めたとはいえ、元・忍だ。
里外に名を知られているわけでも、ビンゴ・ブックに名が載っているわけでもない。
それでも、暗部の一人の忍に、煮え湯を飲まされた人間も少なくない。
問題は、その忍とを結びつけることができる人間が、一体どれ程いるのか、ということだ。

「…お主はどう思う?」
問いかけられた面の男は、その姿勢を崩すこともなく、火影を見据えた。
「相手が一般人なら、そのうち帰ってくる。敵が忍なら、すでに生きていない可能性が高い」
ここにいる者の中で、おそらく一番を知っているその面の男は、淡々と応えた。
「いくら右脚がいかれてても、あいつなら何らかの抵抗なり、他の者へ知らせる印を残すでしょう。
それが全くないのは、あいつがそれを必要ないと判断したからだと考えるのが、一番納得できる。
別に大騒ぎしなくても、そのうち帰ってきますよ」

「それすらもできない状況だったら?」

面の男に顔を向けられ、その疑問を放った中忍は、後悔した。
面越しで、しかも睨んでいるわけではない。ただ、視線を向けられただけだが、それでもその視線に恐怖を感じた。

「そんな忍を育てた覚えはない。もっともこの1年でそこまで腑抜けになったというのなら、話は別だがな」
部屋中がしん、と静まり返る。
が中忍になってすぐ、暗部に引き入れ、10年近く手元で育てた男の言うことだ。
それに異を唱える者はいなかった。


「ふむ、明日までは様子を見よう。明日になってもが姿を見せなければ、探索チームを編成する」

「御意」
火影の言葉に、部屋に集まった者達は散開した。


「…さて、本当のところ、お主はどう思うのじゃ?」
一人だけ残った、その面の男に火影は尋ねた。
「言ったとおりですよ。私の知っているあいつなら、心配はありません」

恨みを持つ者もいるだろう。里の情報を狙う輩もいる。
それでも、面の男の言うとおり、火影もまた、1年以上前のなら、問題にはしても心配はしなかった。
右脚が自由にならず、1年も前に忍の任から離れている。
それがこの問題にどのような影響を及ぼすのか、それは火影にも判らなかった。



他の忍と同様に、いや、それ以上に、火影の部屋を出たカカシもまた、心配に駆られていた。
本来なら任務明けで、休みのはずだった。
だが、失踪を聞き、休んでいられるほど、カカシの心中は穏やかではない。

休みなら、何をしようと俺の自由だ。

火影の言うとおり、明日まで待つつもりは、カカシにはなかった。
火影の部屋を出たカカシは、そのまま姿を消し、里の中へと消えた。





同じ頃、里がそんな騒ぎになっているとは露ほども知らない、その失踪者は、途方に暮れていた。

「どうしよう…」

目の前には、倒れている男が5人。
別に死んでいるわけでも、怪我を負っているわけでもない。ただ、気持ちよく、眠っているだけだ。
「……はぁ〜」
大きな溜息を吐き、は夢の中にいる男達を残して、その小屋を出た。
そこにあるのは、見渡す限りの、森。

はぁ、と再び溜息を吐き、は歩き出した。



今夜は肉じゃがを作ろう、と、八百屋でじゃが芋と人参、玉葱を買った後だった。
店へ戻る近道、と、小道に入ったのがいけなかったのかもしれない。
そこでは、男達に囲まれた。その気配から、忍ではないことは判っていた。
何事かと思案していたとき、その奥から出てきた一人の女性の姿を見て、はこの騒動の原因を理解した。

抵抗しても良かったのかもしれない。
大の男5人相手だとしても、が負けることはなかっただろう。
だが、相手の手にあるナイフや棒切れに様子を見よう、と考えているうちに、こんなところまで連れて来られてしまった。

ここがどこなのか。それは、いくら目隠しをされていても、自分の足で歩いていなくても、には判っていた。
問題はそんなことではないのだ。
和服に身を包む自分の姿と、その裾に隠れている右脚を見て、はやはり、大きな溜息を吐くのであった。





里が闇に包まれる頃、は漸く、見知った場所へと戻ってきていた。
目的の部屋へと向かう途中、何人かが騒いでいるのを見て、は騒ぎになっていたのだと察した。

「お騒がせ致しました」
丁寧に頭を下げたの姿に、火影はホッと胸を撫で下ろした。
その姿は汚れ、若干のやつれは見えるものの、怪我もなく、生きて戻ってきたことに火影は安堵した。
「どこに行っておったのじゃ」

「昨日、買い物の途中で5人組の男に囲まれまして。様子を見ているうちに西の森の外れまで連れて行かれました。
この脚ですので、思いのほか戻ってくるのに時間が掛かってしまいました。申し訳ございません」

「その5人組は何者じゃ?」

「里の一般人です。名前は知りません」

「して、その者達は今どこに?」

「……」
火影の言葉に、は視線を逸らした。

?」

「…申し訳ありません。その、術を使って眠らせて、西の森の外れにある、小さな小屋にいます」
忍を辞めるとき、この目の前にいる人物と約束したのだ。額当てを返した以上、忍として行動はしない、と。
仕方がなかったとはいえ、術を使ったのはその約束に反する。
は約束に反したことを、信頼を損ねたことを、頭を深く下げることで、その謝罪を示した。

「術を掛けられたことには気が付いていないと思います。明日の昼間では眠っていると思いますので、お手数ですが」
「捕獲に向かわせよう」
「お願いします」

「それにしても…」と、火影は目の前に立つ女性を改めて見た。
一般人相手に、一般であるはずの彼女が術を使用したことは、問題だ。
だが、男5人を相手に怪我を負いもせず、負わせもせず逃げてきたその手腕と、西の森から歩いてきたその体力には感心する。
1年も忍として動いていない、右脚が使えないを見て、それでもやはり、手放したのは間違いだったような気がしてならない。

「で、結局、その男達の狙いは何じゃ?」
「それは……」

「大方、お前の男のことだろ?」
言いよどむの代わりに答えたのは、いつの間にかそこにいた、面の男だった。

「隊長!」
「来ておったのか」

気配もなく、突然現れたその面の男に、は眉を顰めた。
「隊長にまでご迷惑をお掛けしたんですね」

「忍を辞めてまで、変なことに首つっこんでんじゃねぇよ」
「好きで関わったわけではありませんけど」
1年ぶりに会うその男の姿に、は懐かしさと同時に、当時と同じ畏怖も感じる。

暗部に入った当初から、この男が恐ろしくて仕方なかった。
それでも、長い間この男の下で動いて得たのは、目を逸らさず睨み返せるほどの、覚悟と気概だ。

「男というのは、カカシのことじゃな」
火影の言葉に、ここまで噂が広まっているのか、と、は頭が痛くなる思いだった。
別に、「男」なわけではない。ただ寝るだけの相手を、利用するだけの相手をそう呼ぶのなら、別だが。

「今回の原因は、おそらく、はたけ上忍ではなく、松屋の一人息子です」
「松屋?大店旅籠の?」
火影の確認に、は頷いた。

「このところしつこくて…、相手にはしていないのですが」
「それでその男が?」
「いいえ。裏で糸を引いていたのは、彼の女性の一人でしょう。見かけましたから」
「ふむ…」

一度後をつけられたことのある松屋の息子。それ以来、何かと通りで声を掛け、に構ってくる。
は全く相手にしていないのだが、それで懲りるような男でもない。
さすがに忍が集まる店に押しかけたり、後をつけたりするようなことはないが、それでも彼の女から見れば、面白くなかったのだろう。
あの大店の女将に納まる予定の彼女にしたら、は目障りでしかなかったのだ。

「三代目、大事にするつもりはありませんので、そちらで対処していただけますか?」
「その方が良いじゃろう」
の申し出に火影も同意した。

「付き合う男は選べ」
「隊長はお耳が悪くなられたのですか?相手にしていない、と申したはずですが」
自分の目の前に来た男を、面越しには睨む。

睨まれた面の男は、その面の奥で楽しそうに顔を歪め、の腕を掴んだ。
「何ですか?」
「鈍ってるな」
掴まれた腕を強引に離し、は視線を逸らした。
「忍ではないのですから、鍛える必要もありませんので」

図星だった。

術を発動する際も、西の森からここまで帰ってくる際も、は自分の身体の変わりように驚いていた。
確かに1年以上、修行も何もしていない。それでも、あまりの体力のなさに、1年という時間の長さに愕然とした。
もう少し、早く帰ってくるつもりだった。
だが、久々の術は体力を奪い、自由に動かない脚は、思った以上に大きな足枷だった。

「…まぁ、だが、根性まではヘタレちゃいないようだな」
面の男はその言葉だけを残し、その場から姿を消した。


「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「皆も心配しておったぞ。早く無事な姿を見せてやると良い」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、優しい目をした火影の部屋をは後にした。


だが、部屋を出た途端、そこで睨むように立っている男の姿を見て、すぐに部屋の中へ戻りたくなった。




「で、どこで何してたわけ?」
どうせ火影室での話を聞いていたのだろうに、改めて聞いてくる男に、は溜息を吐いた。


火影の部屋を出た途端、の全身を見たカカシは、そのままを抱え上げ、飛ぶような速さで、ここまで帰ってきた。
そのまま浴槽の淵へ座らせ、着物の裾を捲り上げ、右脚を覆うさらしを取り始めた。
大きな傷跡が顕わになったところで、桶に湯を張り、泥だらけのの足を丁寧に洗い始める。
の足から泥が落とされ、小さな擦り傷を除き、元の、彼の知るの足になったところで、漸く口を開いた。

の座る浴槽の淵に両手を置き、下から見上げるようにそう言ってきたカカシに、は簡単に事情を説明した。


「…あの馬鹿男」
敵を射抜くような声でそう言ったカカシが、は怖かった。
「何もしないでね。三代目様に全てお任せしたんだから」
「…分かった」
渋々でもそう返事をしたカカシは、腰を上げ、をきつく抱きしめた。

「無事で良かった…」
「……」
背中に回したい手をぐっと堪え、それでもは、この大きな胸の中で泣き出したい思いだった。



適当に監禁されるか、ここに置き去りにされるか。西の森の外れにある小さな小屋で、はそんなものだと思っていた。
だが、自分を運んできた男達の顔が、卑しい笑みに変わったとき、は自分の考えが甘かったことに気が付いた。
男の手が自分の着物に掛けられた途端、思わず印を結んでいた。

ここまで自分が溺れているとは思わなかった。
任務のときは平気だった。だが、今となっては、他の男にあんな目で見られることも、触れられることにも我慢できなかった。
震えが来るほど恐ろしく、吐き気を催すほど気持ち悪かった。

それなのに、カカシに触れられるのは、嬉しいとさえ思ってしまう。
小屋の中で男達に囲まれたとき、一瞬頭を過ぎったのは、カカシだった。


ただ、利用しているだけ。恋愛感情なんて、ない。
そう思っていた。

だが、自分の足を洗うカカシにも、こうして抱き締めてくれるカカシにも、感じるのは嬉しさと安堵だ。
1年も、カカシの気持ちを利用し、縋り、曖昧な関係を続けてきてしまった。その曖昧な関係は、勘違いされ、火影にも、里中に知れ渡っている。
このまま自分の腕を、彼の背中に回せれば、きっと幸せな気分になれるのだろう。

力強い腕の中では、恐怖も不安も、寂しさも感じることなく、熱い、温かな想いに溺れていられる。



それでも、には、そのまま腕を回すことはできなかった。







                                                                    戻る