陸    覚えてる?





足に小さな傷をいくつも作り、埃と汗に塗れたを抱きしめながら、カカシはその存在を焼き付けようとしていた。

失踪したという話を聞いたときは、生きた心地がしなかった。
見つかったと聞いたときも、実際にその姿を確認するまで、心配はなくならなかった。
実際にその姿を見た後も、その泥と埃に塗れたの足を見て、心配が怒りに替わっただけだ。
きつく抱きしめ、自分の腕の中にがいることを確かめ、カカシは漸く安心できた。

「カカシ、苦しいわ」
「あ、ごめんね?」
の声で漸く我に帰ったカカシは、きつく抱きしめていた腕を解いた。

「このまま風呂に入っちゃう?」
「着替えがないもの。家でゆっくりしたいの、送ってくれる?」
「もちろん」
優しく微笑んだカカシに、はこのまま一人で帰りたい、と思った。
それでも、この時間に、この格好で、この脚で帰ることを考えると、そう頼むしかなかった。


ただ単に、自分の家の方が近いという理由だけで、カカシは自分の部屋にを連れ帰った。
だが、いつも会っているのはの家なので、彼女はここへ来るのが初めてだった。

シンプルで、煩雑としているのに、物が極端に少ない、カカシの部屋。
本当に身体を休めるためだけに帰ってくるような、それだけの部屋だった。


初めて来た。でも…、きっともう2度と来ない。


初めてで最後になるだろう、その場所からは離れ難かったが、はカカシに促され、その部屋を後にした。




自分の家の前で、鍵を開けたは、そのまま扉を開けようとはせず、後ろにいるカカシを振り返った。

?」
不思議そうに自分を見つめるカカシの優しい瞳に、決心が鈍りそうになる。

それでも、このままじゃいけない。

「…私が前に言ったこと、覚えてる?」

「何の話?」



「忍とは恋愛しない」



無表情なの口から出たその言葉に、カカシは一瞬、身体が固まるのを感じた。

忘れたことなどない。彼女が忍を辞めたあの日、突きつけられたひとこと。
忘れるはずない。だが、何故今更、それを言うのだ。今までそれでも、お互い一緒にいたというのに。
想いに答えることはなくても、それでも構わないと肌を重ね合っていたのに、何故今更…。


「今までごめんなさい。でも、これ以上貴方と一緒にいるわけにはいかないわ」
「俺が一緒にいたいのに?」
カカシの言葉に、その瞳に、は涙が零れそうになる。
それでも、優秀な忍のこの人に、それを気付かれるわけにはいかない。

自分の感情を必死に押し隠し、は無表情で言葉を続けた。
「私はただ寂しくて、貴方を利用していただけ。いつまでもそんな関係を続けるわけにはいかないでしょ?」
が俺を利用していることくらい、解ってる。それでも続けたいと望んだのは、俺だよ?」
「貴方は…、もっとあなた自身を想ってくれる人と一緒にいるべきだわ。それに…」

「それに?」

無表情で話を続けるに、カカシは自分の声が鋭くなるのを感じる。

利用されているのも、不毛な関係なのも充分解っている。それでも、と今まで一緒にいたのは、こんな別れのためじゃない。
例えに自分と同じような想いがなくても、それでも受け入れてくれるのは、そこに少しでも情があるからだと思っていた。
愛情ではなくても、友情でもいい。同情でも憐情でもいい。
一緒にいられるなら、何でも良かった。

だが、促した先に発せられたの言葉に、カカシは愕然とした。


「それに、私だっていつまでも貴方に縋る気はないの。乗り越えて…、ちゃんと愛せる相手を見付けたい」



「ごめんなさい。こんな非道い女は早く忘れてね」
扉を開け、自分を残して家の中へ消えるに、カカシは何も言えなかった。
自分の前で扉が閉められても、鍵の掛かる音がしても、その場に立っていることしかできなかった。




ちゃんと愛せる相手を見付ける。



のその言葉が、いつまでもカカシの中で響いていた。

例えどんな関係であったとしても、の側にいるのは自分だと思っていた。
例え微かでも、ほんの僅かな希望でも、いつかは…、と思っていた。

だが、は言ったのだ。
この関係の延長線上に、愛はない、と。
いつか自分がこの状況を乗り越えた先にあるのは、カカシではない、別の男への愛だ、と。

忍という生きる術を失った彼女が、新しい世界に求めるのは、自分ではない、と、カカシは言われたのだ。



忍を目指したとき、2人の道は同じ方向へと進み始めた。
暗部に入ったことで2人の道は交わり、が忍を辞めたことで、歩く道は別のものとなった。
それでも、道は違っていても、その道は交わっていると、お互いの間には橋が掛けられていると思っていた。

だがは、自分の方から、その橋を落とした。

カカシが幾らの道へ行きたくとも、その橋の先には、何もない。





翌日から、カカシがを訪ねることはなくなった。

閉店時間に店を訪ねることも、勝手に鍵を開けて自宅に入ることもなくなった。
そしてその代わりに、色町へと足を運ぶのだ。

久々に訪れた嘗ての上客に、色町の女達は喜び、我先にとカカシの情を受けようとした。
だが、カカシが選ぶのは、いつも決まって同じ容姿の女。
長い真っ直ぐな黒髪の小柄な女性。
明るい色の髪を振り回す女でも、大きな胸を揺らす女でもなかった。
黒髪の女性を選んでは、何かをぶつけるように抱き、そして帰っていく。
同じ女を2度と抱くことはない。また、別の黒髪の女性を選び、一回だけ抱き、そして帰っていくのだ。



は何も変わらない。

いつものように店を開け、客の相手をし、閉店時間になると店を閉め、自宅へと帰っていく。
そしてまた同じように、翌日、店を開ける準備をし始める。

ただ違うのは、そこにカカシがいないということだけだ。

店で笑顔を振りまくは、いつもと同じように明るく、穏やかだった。


カカシの色町通いはすぐに噂になったが、それをに話すような人間は、周囲にはいなかった。
それでも噂というのは、どこからともなく聞こえてくるものでもある。

カカシの噂を知っているであろうに、何の態度も変えないを見て、そのうち里には新しい噂が立ち始める。

2人は別れたのだ、と。

もカカシも、何も言わない。
は噂の真意を尋ねてくる人間に、笑顔で誤魔化し、
カカシは馬鹿な質問をしてくる女達を一瞥し、何かを聞こうとしてくる仲間を避け、無視していた。





ふた月の間続いたカカシの色町通いも、やがて落ち着いた。
休みの日は色町へ行くこともなく、ひたすら修行をするか、家に籠り、愛読書を読みふけるようになった。
そして休みなど必要ないとでも言うように、任務に没頭するカカシの姿があった。


任務中、気を抜くことも、ミスをすることもない。
それでも、独りで家にいる時間は、どうしても考えてしまうのだ。
愛読書に目を通していても、頭の中に浮かぶのは、たったひとりの女性のことだった。

いくら同じような体形の女を抱いても、同じような黒髪に指を絡ませても、その違いに気付くだけだった。
残るのはただの虚しさと嫌悪感、強い香水の臭いだけ。

思い出すのは、自分の腕の中にぴったり納まる小さい、柔らかい身体。
そのまま頭を預けてくる彼女と、自分の胸に微かに感じる彼女の吐息。
指を絡ませるとサラリと抜けていく黒い髪、自分の両手で包めてしまう顔に浮かぶ笑顔。
触れると柔らかい唇と、その唇から溢れる、柔らかい声。
その幸せな思い出を最後にぶち壊すのは、決まって最後に突きつけられた、彼女の言葉。


「忍と恋愛しない」

「一緒にいるわけにはいかない」

「愛せる人を見付けたい」


そんなとき、カカシは昼だろうと夜だろうと、部屋を暗くし、目を閉じる。

夢の中でなら、彼女に会える。
暗い夜道を、綺麗な和服姿でゆっくりと歩く、自分の隣にいる彼女。
優しく触れると、くすぐったいと笑う彼女。触れるたびに、熱くなる彼女。
抱いた後、何故か必ず悲しそうな顔をする彼女。自分の腕の中で静かな寝息を立てる彼女。

そして、何の感情も浮かべない冷たい瞳で、別れを告げる彼女。

そこで夢は終わり、現実へと引き戻す。


食べなければ、休まなければ、任務に支障が出る。
食べ物を胃に押し込め、修行や任務で自分を虐め、倒れるように、無理矢理、眠りに就く。
栄養も、休息も、取っている。
美味しいと思わなくても、熟睡できなくても、それでも生活するのが、忍という生き方だ。


だから、別に気を抜いたわけでも、油断したわけでもない。何か落ち度があったわけでも、ミスをしたわけでもない。
ただ、忍というのは、そういうものなのだ。
ビンゴ・ブックに載るような、他国にまで知れ渡っている上忍の任務とは、そういうものなのだ。

ただ、それだけでしかない。



例え彼が、任務中に毒を食らい、病院の医療班の下へ運ばれたとしても、ただ、それだけのことなのだ。







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