質 どこにも行かない
それをに教えたのは、アスマだった。
本来なら、里の忍の、しかも優秀な上忍の負傷など、一般人に報せて良いことではない。
里を不安にさせる必要もないし、万が一でも他国に知られれば、それは付け込む隙を与える以外の何にもならない。
それでもアスマが、敢えてにその事実を教えたのは、2人を知っているからだった。
に対するカカシの想いも、ここ数ヶ月の間に起こった2人の関係の変化も、カカシの変化も知っていたからこそ、だった。
「命に別状はねぇ。解毒薬もあるし、2、3日もすりゃ目が覚めるだろう。1週間もすれば、毒は完全に消える」
「そう…」
何も言わないアスマに強引にここまで連れて来られ、病室の中でが見たのは、顔色の悪い、ベッドに横たわるカカシの姿だった。
「一般人を連れてきて、三代目様に叱られるわよ?」
「何、適当に言っておくさ」
カカシの姿を目に留めた途端、じっとその姿を見続けているを残して、アスマはその場を後にしようと踵を返した。
「アスマさん」
「何だ?」
振り返れば、やはりは、自分に背を向けたままだ。アスマにその表情を確認することはできない。
「…ありがとう」
小さなその呟きをアスマはしっかりと耳にし、そのまま病室を後にした。
「何て顔色してるの…?少し、痩せたんじゃない?」
横たわったまま、何の反応も示さないカカシに、は怖くなり、そっと、その頬に触れた。
肌は驚くほど冷たかったが、鼻腔が動き、微かに開かれた唇から息をする音が聞こえ、は少しだけ、安心した。
そこにあった椅子に腰掛け、改めてそこに横たわる人物を見れば、左手に包帯が巻かれているのが判る。
少し開かれた病衣の胸元にも、真っ白なガーゼが留められているのが見える。
「…何してるのよ?写輪眼のカカシともあろう者が、何て様なの?天才なんじゃなかったの?」
返事を返さないカカシに、は震える声で話しかける。
任務の内容は知らないし、これからもに知らされることもないだろう。
それでもは、自分の経験から、その任務の過酷さが、戦いの厳しさが、想像できた。
「だから嫌なのよ。忍なんか、好きになるのは…」
病室に響くのは、の声だけだ。カカシの浅く、速い呼吸の音も、の声に消されて、今は聞こえない。
銀色の髪に触れる彼女の手は震えている。
蒼白い顔も、冷たい肌も、閉じられたままの瞳も、何も言わない。
解毒薬はもう与えられているはずだ。命に別状はない、と、アスマは言っていた。
それでもの頭に浮かぶのは、息絶えて眠っていた家族の姿と、それに重なる目の前の男の姿だ。
蒼白く、冷たいままのカカシの唇に、はそっと、自分の唇を重ねた。
数ヶ月ぶりのキスは、ただ冷たく、しょっぱかった。
溢れ出る涙を拭うこともせず、火影が病室を訪れるまでの長い時間、はただ、カカシの側にいた。
時々確かめるようにその口元に手を当て、胸に耳を当てただけだった。
「1週間もすれば、またいつものこやつに戻る。心配はいらん」
涙の後を隠し、心配げな瞳でカカシを見つめるに、火影は優しくそう諭した。
「申し訳ありません。私がいて良い場所ではありませんよね。すぐに帰りますので…」
「良い。ここにおってやれ」
立ち上がろうとしたを、火影が制した。
「カカシもいくら医療班とはいえ、素顔を見られるのは好まんじゃろう。動けるようになるまで、お主が世話してやると良い」
「ですが…」
忍ではない自分が、まして家族でもない自分が、カカシの側にいても良いのだろうか。
カカシに家族はいない。
それでも、木の葉病院の、限られた者だけが入ることができるこの病室に、自分がいても良い理由を、は見付けることができなかった。
そんなの思いを察した火影は、優しい笑みを浮かべて、里の長としての言葉を発した。
「これは火影としての命令じゃ。必要がなくなるまで、ここにいてカカシの看病をして欲しい」
「…解りました」
再び椅子に腰を下ろしたに、火影は頷き、病室を去っていった。
蒼白かった顔色はやがて紅潮し、冷たかった肌は熱くなった。呼吸は荒いものとなり、身体から汗が出始める。
解毒薬が効いている証だ。
医療班の人間は、に解熱薬を渡し、カカシに飲ませるように言った。
そして配合の違う解毒薬を机に並べ、服用させる時間と順番を説明していった。
の過去を知り、火影にも頼まれた医療班の医者は、異変があったら呼ぶように、とだけ言い、病室から出て行った。
薬の扱い方は、充分に解っている。
それでも説明されたことを書き取った紙を机に置き、は解熱薬を一錠、手に取った。
水差しからコップへと水を注ぎ、解熱薬と水を自分の口に含み、カカシに唇を重ねる。
開かれた唇から、薬と水がカカシの口腔内へと移動し、その喉が動いたことを確認して、は唇を離した。
そうしてから熱い湯と乾いた布を用意し、休むことなく溢れ出す汗を拭い始めた。
一日に一回、着替えをするために家へ帰る僅かな時間を除いて、はずっとカカシの側にいた。
その3日間、『たすきぼし』には【臨時休業】の札が掛けられ、そこに灯りが点ることも、人の気配がすることもなかった。
ぼんやりとした意識の中、僅かな息苦しさと左腕に感じる痛みで、カカシは自分の状況を思い出していた。
敵に囲まれ、怪我を負いながらもどうにか倒したが、最後に放たれた毒にやられた。
どうにか仲間の下へ帰ったことは覚えている。木の葉の門を潜ったような気もする。
記憶があるのはそこまでだ。
ゆっくりと開けた重い瞼の向こうに見えた、見覚えのある白い天井に、病院だ、と今の状況を悟った。
周囲を確認しようと横に目を向け、そこにある景色に驚いた。
だが、それが夢なのか、幻なのかを確認する前に、重くなる瞼はカカシの意識を奪っていった。
何度か目は冷めたような気がする。
その度に目に映る愛しい姿や自分に触れている温かい手。
だがそれが現実なのかを確認する前に、再び夢の中へと戻ってしまう。
夢の中では、会いたくて、触れたくて仕方なかった、恋焦がれた人物が微笑んでいる。
一体どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。それとも全て、自分の願望が見せる幻なのか…。
そんな時間を何度か過ごし、カカシが目を開けたのは、暗い部屋の中だった。
窓の外からは月明かりが射している。その僅かな明かりを頼りに視線を廻らせれば、夢の中でしか会うことのなかった、彼女がいた。
自分が眠るベッドに頭を預け、僅かに自分の方を向いている彼女の顔は、夜中に何度も盗み見したことのある、その寝顔だった。
自分の腕の中で眠るその寝顔を、目が覚めるたびに撫で、そうしてから再び、自分も眠りに戻っていた。
怪我をしていない右手を、恐る恐るその寝顔に伸ばす。
胸の傷は僅かに痛んだものの、今度はその意識が眠りへと持っていかれることはなかった。
触れたら、消えてしまうのではないだろうか。
そっと、その幻が消えないことを願いながら伸ばされた手は、確かにそこにある感触を伝えていた。
確かに自分の手はその存在を伝えているのに、それでもカカシは、そこにあるものは信じられないように、じっと見つめていた。
彼女の瞼が微かに動き、開かれた瞼から綺麗な瞳が姿を見せても、カカシの手は、その頬に触れられたままだった。
「目が覚めたのね。苦しい?痛む?」
の問いかけに、カカシはゆっくり首を振った。
3ヶ月ぶりに聞くその声は、カカシの耳から脳へと響き、やがて全身に染み渡った。
「…?」
「どうしたの?喉が渇いた?」
正直、若干の口渇はあったが、それよりも自分の右手を握ってくる彼女の手の方を、カカシは渇望していた。
「どうして、ここに…?」
自分を真っ直ぐ見ながら、かすれた声で話すカカシに、は顔を歪めた。
「…?」
「三代目の、ご指示なの」
あぁ、そういうことか。
期待に満ちていた希望をあっさりと打ち砕かれ、カカシは漸くから視線を外し、瞳を閉じた。
自分の額に彼女の手が触れたときも、カカシは目を閉じたままだった。
「まだ夜中よ?ゆっくり休んで」
休息なら、もう充分に取った。そんな自分の意思とは反対に、カカシは意識が薄れそうになるのを感じた。
それでも、この現実が、眠ってしまったら消えるのではないかと思い、薄れそうになる意識を必死で押し留めた。
三代目の指示でも同情でも何でもいい。会いたくて仕方なかったが今、自分の側にいる。
例え幻でも夢でも、もうのいない世界へは行きたくなかった。
額に当てた手に重ねて、ぎゅっと握ってくるカカシの右手を、は両手で包んだ。
「…どこにも行かないわ。ここにいる」
「本当、に…?」
「えぇ。貴方が必要ない、と言うまで、私は貴方の側にいるわ」
薄れそうになる意識と戦いながら、カカシは自分の唇に、懐かしい感触を感じた。
驚いて目を開けると、優しく微笑むの顔が、すぐ目の前に見えた。
は、今度は唇にではなく、額にキスをし、「おやすみなさい。いい夢を」と呟いた。
その言葉を最後に、カカシはまた、落ちてくる意識に逆らえず、夢の中へと戻っていった。
いい夢を。
そんなの祈り通り、カカシの夢は幸せなものだった。
翌朝目覚めたときは、その内容は綺麗に忘れ去られていたが、それでも幸せな夢だった気がする。
あたたかくて、嬉しくて、やわらかで、優しくて…。
カカシはそんな桃源郷のような夢を思い出そうとしたが、耳に入ってくる音を聞いて、それを止めた。
すぐに記憶から消し去ってしまう夢の中よりも、確かな幸せが、そこにはあった。
「昨夜、一度目を覚ましました。今までみたいに虚ろとしているのではなく、しっかりと会話をして」
「そうですか。では、今日にでもしっかりと目を覚ますでしょう」
「そうですね。一安心です」
もその予想はしていたが、医者にそう言われ、ホッと胸を撫で下ろした。
「軽い食事を用意しましょう。起きたら少しずつ、食べさせてください」
「はい。このことを三代目様に伝えて頂けますか?心配していらっしゃったから」
「もちろんです。ですが、貴女も少しお休みになられては?この3日間、殆ど寝ていないでしょう?」
医者の心配げな声に、は柔らかく微笑んだ。
「これでも一応、元・忍ですから。数日程度、どうにでもなりますわ」
ゆっくり休むことなんて、にはできなかった。
家に帰る僅かな時間でさえ、その間に何かあったら、と怖かった。
投薬の時間になれば口移しで飲ませ、苦しそうに呻き声を上げるたびに、頬に触れ、声を掛け続けた。
心配ないと、回復へ向かっていると解っていても、しっかりと自分を認識したときは、泣きたいくらい嬉しかった。
「…?」
不意にベッドから上がった声に、呼びかけられたではなく、医者が返事をした。
「カカシさん、ここがどこだか判りますか?」
見たことのある顔を思い出し、カカシはしっかりと頷いた。
「木の葉病院。あんたは医療班の人間」
はっきりとした言葉に、その医者は微笑み、頷き返した。
「何があったのか、覚えていますか?」
「覚えてるよ。三代目に報告する」
「三代目にお伝えしておきましょう。まずは栄養を取ってください。
食事を運ばせますので、少しずつで構いません。召し上がってください。それと、薬も確実に飲んでください。
まだ毒は、完全に抜けたわけではありませんので」
しっかりと頷いたカカシを確認して、医者は病室を後にした。
「お腹空いてる?」
ベッド脇に置いてある椅子に腰掛けたが、カカシに微笑みかけた。
「兵糧丸は飲ませてたけど、やっぱり普通のお食事の方がいいものね」
「…秋刀魚の塩焼きと茄子の味噌汁が食べたい」
「クス、絶対お粥だと思うわ」
運ばれてきた食事は、の予想通り白いお粥だけで、薄い色のスープが付いているだけだった。
「おかずも何もないわけ?」
項垂れるカカシに苦笑いしながら、はその食事を取るのを手伝った。
何の味もしないような粥にスープ。
それでも、動き辛さの残る自分の右手の代わりに、が食べさせてくれたそれは、カカシにとって、この3ヶ月間で一番美味しく感じられた。
それからずっと、はカカシの病室で過ごした。
火影が顔を出し、カカシが任務報告をしている時間。一日に一回、が家へ帰る僅かな時間。
それ以外の全ての時間を、カカシはと一緒に過ごした。
カカシが汗を掻けば、が身体を拭き、着替えを手伝った。
自分で食事が出来るようになれば、の食事も用意され、一緒に取るようになった。
夜は部屋に用意された簡易ベッドでは休み、少し離れた自分のベッドから、カカシはその顔を見ながら眠りに就いた。
診察の間もはその様子を見守り、4日ぶりに歩いたときも、少しだけふらついたカカシの身体を支えたのは、だった。
こうして、カカシがこの病院に運び込まれた日から8日、退院するときまで、は病院にいた。