捌    愛してる





2週間ぶりに帰った我が家は、籠った空気と溜まった埃で、陰鬱としているのだろうと思った。
任務に出かける前、放り出したままの汚れ物も、酒のビンも、そのままだった気がする。
しかし、扉を開けたカカシに飛び込んできたのは、清々しい空気と、綺麗に整頓され、塵ひとつない部屋だった。


驚いて自分の後ろにいるを振り向いたカカシは、苦笑いするその表情を見た。

「勝手にごめんなさい。三代目様にお願いして、鍵を貸して頂いたの」

の言葉に、漸く、ここが自分の部屋なんだと、間違っていたわけではないのだと、カカシは確認した。
ここで生活するようになってから、一番片付けられ、綺麗なその部屋は、自分の部屋ではないような錯覚に陥る。
それでも何故か、の家にいるような気分になり、不思議と落ち着いた。


「お風呂でも入ってきたら?秋刀魚と茄子が食べたいんでしょう?その間に用意しておくわ」
茄子を取り出し、洗い始めるに驚きながら、カカシは浴室へと向かう。
浴槽には湯が張られ、2週間ぶりの入浴に、カカシは大きく息を吐いた。


いつの間に…。

部屋を掃除し、食料を買い、湯まで張られていた。

が病室を離れたのは、自分の家に帰るときと、火影が来ていた僅かな時間だけだ。
退院する前も、火影が顔を見に来た、その短い時間だけだった。
確かに病院から近いとはいえ、そのの気遣いと用意周到さに、カカシは頭が下がる思いだった。

ゆっくりと湯船に浸かり、身体の疲れを解す。
左腕の傷も塞がり、胸の傷はもう、薄っすら痕が残るだけだ。
身体は若干鈍っている気がするが、火影から言い渡された1週間の休暇の間に、元に戻そうと決心した。

脱衣所にはお日様の匂いのする着替えが用意されていて、微かに漂う味噌の香りがカカシの鼻をくすぐった。


白米に茄子の味噌汁、秋刀魚の塩焼きに切り干し大根。
久々に食べたの手料理に、カカシは生き返ったような気がした。

「はぁ〜、美味かった!ごちそうさん」
「お粗末さまでした」
湯気を立たせる緑茶を一気に飲み干し、満足げに息を吐いたカカシに、も笑みを返した。


「さて、と…」

突然立ち上がったカカシは、空になった食器を片付けようとしているの腕を掴んだ。
「カカシ?」
そのまま強引に引っ張り、ベッドの上に押し倒す。
が倒れこんだ途端、そこからお日様と洗剤のいい匂いがし、それをもたらした人物を見下ろしながら、カカシは微笑んだ。
「カカシ?どうしたの?」
「食事の後は運動でショv」
にっこりと笑い、自分の首筋に顔を埋めてくるカカシに、は戸惑った。

「…食後すぐの運動は、あまり良くないのよ?」
反論したに、カカシは細い首筋から顔を上げ、真っ直ぐにを見下ろした。

「俺が必要ない、って言うまで、側にいる。そう言ったよね?」

「…言ったわ」

病室で、不安げに眠ろうとしないカカシを安心させるために、が言った言葉だ。

カカシは、自分が聞き分けのない子供のように、揚げ足を取ろうとしているのは解っていた。
もまた、あの病室での言葉を、カカシが自分に言いように解釈しようとしていることは解っていた。
それでもは、自分を見下ろすカカシの瞳を、真っ直ぐ見つめ返した。

「必要ない、なんて、一生言わないから。…が必要だ。俺の側にいて」

「…病み上がりなのよ?」
反論したに、カカシは眉を顰めた。

はそんなカカシの首に両腕を回し、その少しだけ痩せた肩に顔を埋めた。
赤くなる顔を、見られたくなかった。
?」

「お願い…、優しくして」

小さな声で囁かれたそのお願いを耳にした途端、カカシはそのまま、の身体に手を這わせ始めた。


男を誘惑する言葉も、その方法も、知っている。この人に抱かれるのも、初めてではない。
それなのに、どうしてこんなに恥ずかしいのか。

は、赤くなる顔も、抑えきれない吐息も、両手で必死に隠そうとした。
しかし、カカシはそんなの両手を優しく外し、顔中にキスの雨を降らせる。



貴方が必要ない、と言うまで、私は貴方の側にいる。

カカシにどう解釈されても、は構わなかった。
あのときそう言ったのは、カカシを安心させるためだけじゃない。自分がそうしたかったのだ。

傷付いたカカシを見たとき、は後悔した。
夢現の中で、何度も自分の名を呼ぶカカシの声を聞いたとき、は決心した。

忍だった初恋の人は、想いを伝える前に手の届かないところへ逝ってしまった。
忍じゃなかった家族は、それでも、もう、どこにもいない。
忍だった私は、今はこうして忍を辞めて、生きている。

いつ、何が起こるかなんて、誰にも判らない。
いつ、愛する人を失うかなんて、誰にも判らない。


それならば、せめて手の届く場所にいる間は、一緒にいたい。
欲しいものを欲しいと叫び、求めるものに真っ直ぐに、手を伸ばしていたい。
例えそれが刹那でも、艱苦でも、それでも望むものがある限り、二度と手を離すことはしたくない。

ゆっくりとした快感と、優しい熱の狭間で、は呟いた。

「愛してる…」




ぐっすりと眠るの顔を、カカシはずっと眺めていた。
疲れているのだろう。自分の看病と、この家の支度、自分の家にも帰っているはずだ。
ベッドで寝ていたカカシと違い、動き回っていたは、狭いベッドの中で、カカシに身を寄せ、静かな寝息を立てている。

数ヶ月ぶりに、を抱いた。
どんな女を抱いても得ることのできなかった充足感が、カカシを支配していた。
彼女に似た姿形の女を渡り歩いたときの、嫌悪感も空虚も、そこにはなかった。


アイシテル。

熱に侵されながら、彼女が呟いたそのひとことを、カカシは確かに聞いていた。
幻聴だろうか。
それとも、情事の間に女達が口にする、ただの戯言だろうか。
それでも確かに自分の脳内に残る小さな、熱い呟きは、カカシの胸を熱くした。

今までもを抱いたことは、何度もある。
それでも、が自分の気持ちを口にしたのを聞いたのは、これが初めてだった。
ただ快感に喘ぐに、愛を囁き続けるカカシに、彼女が返事を返したことは、これまで一度もなかった。

愛してる。

そう呟いた唇を指でなぞり、カカシはその柔らかさを楽しんだ。


「ねぇ、。早く起きてよ。もう一回、この唇で言って。俺を愛してる、って」

カカシの呟きは、夕日が差し込む部屋の静寂へと消えていった。
眠っている間にこの温もりが消えないように、しっかりと自分の腕の中に小さな身体を収め、カカシもまた、夢の中へと落ちていった。




夢の中で、はカカシの後姿を追いかけていた。
どんなに追いつこうとしても、右脚が鉛のように重く、それを邪魔する。
後姿はだんだん小さくなる。
熱い涙が零れる。
何度名前を呼んでも、それは声にはならず、彼の姿は遠くへと去っていくだけ。
真っ暗な闇の中で、は叫び続けた。
自分の脚をクナイで切りつけ、重い脚を切り落とそうとしていた。
肉を絶ち、骨を削り、血が吹き出る。
ようやっと身体から離れた右脚にホッとし、前を向いたとき、そこにはもう、彼の姿は見えなかった。

暗闇の中で泣き叫びながら、その悪夢は幕を閉じた。

目を覚ましたとき、頬は涙で濡れていた。

周囲は暗く、その闇に悪夢が戻ってきそうになったが、自分の身体に巻きつく腕の重さに、もう夢ではないことを知った。
雲間の隙間から覗く月明かりに微かに照らされたカカシの寝顔を見て、は漸く安心できた。
胸に耳を当てれば、ドクドクと彼の鼓動が聞こえる。
手を伸ばし頬に触れれば、そこに確かな温かさを感じることが出来る。
絡みつく腕の中でもがき、どうにか顔を近付けて、はカカシの唇に自分のそれを重ねた。


確かにここにいるのに、何の反応もない。
唇を押し付けてくることも、舌が強引に入ってくることもない。
それが面白くなく、は再び、唇を重ねた。
ただ触れるだけのキス。眠りの中にいるカカシは、何度唇を重ねても、何の反応も示さない。

「…つまらないわ」
頬を膨らませ、不満げに呟いたは、今度は自分の舌でカカシの唇を割ってみた。
微かに開かれた唇に満足したは、そのまま顔を離そうとしたが、突然意志を持って動き出した彼の腕に阻まれ、動けなかった。

「ん…ふっ、…んっ」

侵入してくるカカシの舌に、逃げ惑う暇もなく、息が苦しくなり、背中を叩くまで、その口づけは続いた。
漸く離れられたときは、の息は上がり、乱れていた。

「…っはぁ、はぁ、ひどい…」

「ひどいのはどっち?寝込みを襲うなんて、ま〜ったく、厭らしいんだから」
楽しそうに吐息が掛かるほど近くで微笑むカカシに、は顔を真っ赤にした。
「いつから起きてたの?」
「ん〜。キス6回?」

「…最初っからじゃない!」
真っ赤な顔で叫び、自分の腕から逃げようとするをカカシは抱きしめ、耳元に口を寄せた。
「昼間のじゃ足りなかった?」
面白そうに言うカカシに、は背中に回していた手で、そこをつねった。

「いっ…!ちゃん、俺、病み上がりよ?もうちょっと優しくしてくんない?」
「病み上がりなら、それらしく、大人しくしてなさい」
辛らつな言葉を言われても、カカシの笑みが消えることはなかった。

嬉しくて仕方がない。楽しくてしょうがない。
いくら眠っていると思っていたとはいえ、彼女の方から何度も唇を重ねてきた。
それだけでは飽き足らず、舌を入れようとしてきた。
様子を見るつもりだったカカシも、自分の唇からの舌が離れようとした途端、もうその我慢も限界だった。

「ねぇ、

「何よ」
腕の中でまだご機嫌ナナメな様子のの声に、カカシは笑い、耳元で囁いた。

「アイシテル」

「!!」
びくっと動いたを離さず、カカシは声を低くし、ゆっくりと言葉を続ける。

「俺の空耳?」
「……っ!」
顔を見なくても、それが真っ赤なのが判る。背中に回された手がぎゅっと握られ、熱い頬が肩口に押し付けられる。



…、俺も愛してる」

好きだ、とは何度も言われたことがある。でも、初めて伝えられたその言葉は、の胸を熱くした。
ぎゅっ、としがみつき、小さな声で伝えられた返事は、確かにカカシの耳に届いた。

「私も…」





出逢ったのは、狐面越しだった。
初めて身体を重ねたときは、お互いの名前も告げなかった。
そして今は、一番近い場所にいる。
素顔も名前もどうでもいい。
ただお互いの息遣いを感じるほど近くで、心を交し合えれば、それでいい。

雲の隙間から覗いていた月が、その姿を完全に闇夜に現した頃、一組の恋人同士は、お互いの肌を寄せ合い、幸せな夢の中にいた。







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