薔薇の下で
むせ返るような薔薇の馨りが、悲しさも寂しさも包んでくれる。
この場所は、いつだって優しい。
「またここにいたのかよ」
「景ちゃん…」
薔薇の樹の中の彼女は、小さな子供のように見えた。
彼の記憶にある、幼い頃そのままに、白いベンチに膝を抱えて蹲り、彼を見上げている。
「こんなとこにいねぇで、俺の部屋に来ればいいだろ?」
「お父さんに怒られるもん」
少し唇を尖らせた彼女の隣に、彼もまた、腰を下ろした。
広大な敷地の一角にある、小さな薔薇園。ここは、2人にとって、思い出の場所だった。
幼い頃から一緒にいた2人は、大人たちから隠れ、よくこの場所で内緒話をした。
白い薔薇の下での話は、ここだけの秘密に…。
そんな古い外国の慣わしを耳にしたときから、2人の間で、この白いベンチは、内緒話の場所となっている。
色とりどりに咲き誇る薔薇の花の中で、むせ返るような香りに包まれ、彼らは何度も、同じ時を過ごしてきた。
この家の主人の独り息子と、この家に仕える執事の娘。
親同士の関係がどうであろうと、彼と彼女は、幼い頃から内緒話を共有してきた、幼馴染みだ。
「で?今度は何があったんだ?」
ここ2か月、彼女を悩ませていることを、飽きるほど聞いてきた彼、跡部景吾は、揶揄の中にも優しさを含ませた声で話しかけた。
「…ドタキャン。嘘。いつものことだよ」
溜息と共に吐き出される言葉は、諦めと悲しみを含んでいる。
幼い頃の記憶より、いくらか古びた白いベンチの脚を見つめるように、彼女、は、視線を落とした。
「今日、映画見に行く約束だったんだけど、急に部活だとかで、ドタキャン」
足の爪先を弄ぶように、はローファーをカツンと鳴らした。
「部活なんて、ないの。そんなの、すぐバレるのに…」
カツン、カツンと、2度爪先をかち合わせ、は抱えた膝に、額を寄せた。
「ホント、馬鹿にしてるよね。すぐバレる嘘で、堂々と浮気して…」
ポンと乗せられた跡部の手は、いつもと同じように、優しい。
「これで何度目だ?」
「知らない。もう、数えるのも馬鹿らしいし、知らないのだって絶対あるもん」
カツン、カツンと、ローファーが音を立てる。
膝を抱えて蹲り、無意識に爪先をかち合わせるのは、彼女のくせだ。
寂しいときや、悲しいとき。その想いをその身に隠すように、膝を抱えて蹲る。
そうして、気付いて欲しいと言うように、爪先だけで合図を送るのだ。
「いい加減、やめちまえよ。そんなヤツ」
「だって、……好きなんだもん」
その言葉の間に含まれた間に、跡部は優しく微笑んだ。
思えば、最初の裏切りが発覚したとき、の言葉に、間はなかった。
迷いも、戸惑いも、疑いもなく、はっきりと言い切っていた。「好きだから、仕方ない」と。
だが、その裏切りが重ねられるたびに長くなっていく「間」に、跡部は気付いていた。
そこに含まれる、迷いにも。
例えば、普通の会話では気付かないような、単語と単語のあいだの、僅かな空白。
それでも、その短い空白の間に、彼女は自分の想いを思い出し、確認し、言い聞かせているのだろう。
誰もが気付くほど長くなったその空白は、その分だけ、彼女の心の葛藤を表していた。
「先輩はすごく人気あるし、カッコいいし、仕方ないんだよね」
自分に言い聞かせるように呟くは、跡部の目には意地を張っているようにしか見えなかった。
幼馴染のが、頬を赤らめながら、初めてできた恋人を跡部に打ち明けたのも、この薔薇園のベンチでだった。
跡部とは別の学校に通う、の先輩。
跡部はその顔も、フルネームも知らないが、の口から語られる「先輩」は、どう考えても彼女を大切にしているようには思えない。
繰り返される裏切りと、重ねられる嘘。
頬を赤らめた報告から2か月、今となってはもう、の頬が赤くなることはない。
この薔薇園で語られる内緒話は、心を躍らせるような恋ではなく、翳りを濃くし続ける裏切りの話だ。
「女にモテるからと言って、浮気をしても許されるわけじゃねぇぜ?」
「……」
跡部の言っていることは、も解っている。
「彼女」という立場の自分がいる以上、嘘をついて他の女の子とデートするのは、許される行為ではない。
それでも、頭で理解することと、心は、別の問題なのだ。
例え、デートの中に、キスやそれ以上の行為が含まれていることを知っていても、心は決断してはくれないのだ。
何度も、問いただそうとしたことはある。
だが、その度に、ドキドキしていた片思いの頃や、恋人になった瞬間の嬉しさを、思い出してしまうのだ。
世界中で、一番幸せなのは自分だと、信じて疑わなかった、あの瞬間を。
裏切りを責めることもできなければ、別れを切り出すこともできない。
繰り返される裏切りに、もう、心は麻痺してしまったのかもしれない。
嘘をつかれるたびに、悲しさよりも、「またか」と思ってしまう自分に、は気付いていた。
「好き…、なの。多分…」
「何だ、それ」
多分。そんな言葉を付けてしか、恋人への思いを語れない自分が嫌いだった。
先輩の隣にいると、ドキドキする。優しくされると、嬉しくなる。
片思いの頃より強くはなく、重ねられる嘘と共に他の想いが顔を出しても、ドキドキは本当なのだ。
ただ、それが片思いや、恋が実った瞬間を思い出させるドキドキなのか、今の想いがさせるドキドキなのか、よく判らない。
「不確定要素がなきゃ、存在しないのかよ」
「多分、ね」
不確定な副詞を付けなければ、宣言できない恋でも、にとっては、まだ、存在しているのだ。
コツンと、表情の見えないの頭を、跡部の指が弾いた。
「何よ」
顔に掛かった髪の間から覗くの瞳は、その行為への抗議を表している。
「そんな馬鹿な男を引き摺ってねぇで、もっと周りを見ろよ」
「どういう意味?」
「そいつよりイイ男がいるだろ?」
「先輩のこと、知らないくせに」
先輩はかっこいいのだ。サッカー部のエースで、生徒会役員で、女の子にも人気がある。
そんな素敵な先輩を好きになったはずなのに、その人気がを悩ませているのだ。
「確かにその馬鹿男のことは知らねぇけどよ」
「先輩は馬鹿じゃないもん!」
叫ぶように顔を挙げたの目の前には、得意げに微笑む、跡部の顔があった。
「俺様よりイイ男か?その先輩とやらはよ」
「……」
色素の薄いサラサラの髪に、人を射抜くような真っ直ぐな瞳。無駄に整ったその容姿は、彼の自信を表しているようだった。
氷帝学園で、彼が騒がれていることは知ってる。その人気は、学園の外にまで及んでいることも。
それでも、にとって跡部は、多くの女の子達が騒ぐような、憧れの的ではない。
幼い頃の悪戯も、泣き顔も知っている。弱音も愚痴も聞いたことがある。
にとっての跡部は、その強さの中に、弱さも失敗もあることを知っている、幼馴染みだ。
「馬鹿男より、お前のことを想ってる男を、俺は知ってるぜ?」
「どこにいるのよ。そんな男」
いるのなら、連れてきて欲しいと、は思った。
そんな人がいるのなら、この疑惑だらけの恋心にも決着がつくのかもしれない。
例え、その人のことを好きじゃなくても、強引に想いをぶつけられたら、心も決断してくれるかもしれない。
初めて実った恋に、サヨナラを告げる決断を。
「そいつは、浮気なんかしねぇし、お前のことしか見てない」
「…だったら、今すぐ連れて来てよ!変な慰めはいらない!」
真っ直ぐな跡部の瞳を、の瞳が真っ直ぐに射抜いた。
「すぐ目の前にいるだろ?」
「何言って…、んッ!?」
俺様な笑顔で微笑んだ跡部に文句を言う間も与えず、の唇は、奪われていた。
「…っはぁ」
抵抗した両手を掴まれ、後頭部を抑えられ、永遠にも思えたキスが終わったとき、は真っ赤な顔で跡部を睨みつけた。
「何すんのよ!」
「他の男のもんに用はねぇんだよ」
掴んだ手を離し、跡部は立ち上がった。
「早く、決着つけて来い」
呆然とするを残し、薔薇の花に囲まれた通りを歩いて行く跡部は、優雅で、自信に溢れていた。
その力で望んだものを確実に手に入れる、帝王のように。
「…こんなの!お父さんにバレたら、殺されちゃう!」
雇い主の息子との恋など、父親が許すはずない。こうして、彼と親しくすることですら、良い顔をしないのだから。
それでも跡部は、そんなことは関係ないというように、ゆっくり振り返り、に笑った。
「薔薇の下の出来事は、秘密なんだろ?」
「秘密の恋なんて、嫌!」
疑惑だらけの恋も歓迎できないが、誰にも認められない秘密の恋など、したくもない。
まだ始まってもいない関係を口にしていることなど気付かず、は叫んでいた。
「次にここに来るときは、ちゃんと1人で来い」
『ひとり』
跡部の示す言葉の意味が、そのまま、1人でこの場所に来ることを示しているのではないことは、にも解った。
彼は、独りになってから来いと、そう言っているのだ。
誰かの恋人ではなく、他の男のものではなく、心に残る不確定な副詞を付けた恋を終わらせてから来い、と。
「お前の父親くらい、俺様が説得してやるよ」
そう言い残し、跡部は、この秘密の出来事が許される薔薇園を去っていった。
父親の怒りに震える顔が目に浮かぶ。
それでも、もし、この不確かな心に決着をつけることができたなら、
次にこの薔薇園を訪れるとき、この心が誰のものでもないのなら、
その先には、「多分」なんて言葉が必要ない、確かなものがあるのかもしれない。
未だ熱の残る唇を指でなぞり、は薔薇園から姿を消した幼馴染みを想っていた。
恋人と交わしたたくさんのキスより、たった一度の幼馴染みとのキスの方が、の心をドキドキさせていた。
むせ返るような薔薇の馨りが、突然訪れたドキドキに、鮮やかな色を付けていく。
薔薇の下で、白いベンチの秘密の出来事が、内緒話でなくなるのも、きっと、そう遠くはない、未来の出来事…。
まだ始まっていない恋を祝福するように、薔薇は鮮やかに、誇らしげに、咲き誇っている。