教室で友達と笑っていても、テストの結果が一番でも、全部それなりにしか、嬉しくない。
例えば今、目の前に立つ人に「イエス」と答えれば、この高校生活は、「それなり」じゃなくなるのだろうか。



「で、どうだった?」
「…見事玉砕。好きな男、いるんだってさ」

そんな会話を、教室で耳にした。
クラスメートがに想いを寄せて、それを伝えに言ったのは知っていた。
それを秘密にするには、彼の友人の声はあまりにも大きかったからだ。

クラスメートが自分の幼馴染みに恋していて、告白するとか、気にならなかったといえば嘘になる。
でもそれは、妹を見守るような兄のような気持ちで。
でも、それよりも何よりも耳に付いて離れなかったのは、別の言葉。

「好きな男、いるんだって」

その瞬間、自分の中に渦巻いた小さな嵐に、不二は戸惑っていた。

は幼馴染みで、妹のような存在で、自分の一番身近にいた女の子。
2日と空けずに話をして、メールを交わして、どんな秘密もないはずだ。
悩みごとも、嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、は全部、自分に報告してきたはずだ。
少なくとも、この4月、同じ学校に通うようになるまでは。
例え、意地っ張りなとの長いケンカが続いていても、それに変わりはないはず。
が甘えてきたとき、助けを求めてきたとき、彼女を甘やかすのは、自分のはずだ。
なのに、に好きな男…?

ワガママで自分勝手で、甘えん坊で、そんな子供のに恋愛なんて、考えられない。
多分、おそらく、きっと、それは、告白を断るための口実だ。

そうやって不二は、自分の中に突然起こった小さな嵐を、無理矢理収めようとしていた。




午後一番の退屈な授業の暇潰しに、窓から外を見れば、校庭でサッカーに励む、他のクラスの授業が目に入る。
そのジャージの色に、自然と不二は、自分の良く知っている顔を捜してしまう。

…いた。

見事に決まったゴールに、チームメイトと手を合わせる彼女の姿に、不二の顔は自然と綻んでいく。
男女混合のそのチームで、命一杯走り回り、悔しそうな顔も、楽しそうな顔も、全面に押し出している。
そんな彼女を見ると、「幼い頃の彼女のままだ」と、不二は思う。
遊ぶのにも、ケンカするのにも、何をするのにも一生懸命で、全身でその感情を表現する。
見ているこっちが楽しくなるほど、彼女は動き回る。
もはや教師の声などただのBGMで、不二の耳には、聞こえないはずの校庭の賑やかさが聞こえてくるようだった。

チームメイトからのパスを受けて、その小さな身体をちょこまかと動かし、前へと進んでいく。
足からボールが離れた途端、はゴールへと向かい、全力疾走だ。
諦めかけている女子たちを走りぬき、の視線はゴールとボールに集中している。
だから、自分へ向かってくるボールには気が付いても、それを阻止しようとする敵には気が付かなかったのかもしれない。


ガタッ

突然立ち上がった不二に、クラス中が注目している。
だが、当の本人が見ているのは、ゴール前にできた人だかりの、その中だ。

「どうした?不二」
教師の声に我を取り戻した不二は、しばしの沈黙の後、にっこりと笑った。
「すいません。気分が悪いので、保健室へ行ってきます」
その微笑は、異を唱えた者を凍らせてしまいそうな、冷たい笑顔だった。


クラスメートも、教師でさえ、不二の具合が悪いとは思っていなかっただろう。
それでも、教師の許可を得た不二は、教室を出た途端、自分が立てる足音も気にせず、走り出した。



その場所に着いたとき、彼の息は乱れていた。
試合や練習よりも短い時間、短い距離。
それでも、早鐘を打つように脈だった心臓は、必要以上に酸素を欲していた。





「もう、最悪…」

誰もいない保健室、真っ白なシーツに寝転ぶは、独り言を呟いた。
気もそぞろだったのかもしれない。熱くなりすぎていたのかもしれない。
胸の中のモヤモヤを、体を動かすことで消そうとしていた自分が、バカだったのかもしれない。
右足に貼られた湿布の奥で、ズキズキと、脈打つ度に痛みが響いてくる。

「捻っただけだと思うけど、一応、病院に行きましょうね」
そういった保険医は、の家へと連絡を取るべく、この場所を後にしていた。

ガラッと、扉を開ける音に、は思わず壁の方を向いた。
保険医が帰ってきただけなのだが、あまりにも情けなさ過ぎるこの状況に、は逃げてしまいたかった。

カーテンが開けられる音にも、は身じろぎひとつしなかった。



「……?」

声を掛けられない。
それどころか、聞こえてくるのは、保険医のものではなく、荒く、乱れた、多分男の人の息遣い。
徐々に近付いてくるその気配に、何だか怖くなる。
「……!」
誰かが、自分の髪に触っている!

一瞬、どうしようもなく恐ろしくなった。
でも、それは本当に一瞬のこと。

はすぐに気が付いた。その手が、何故か懐かしく感じる、彼の手だということに。


触れる手はどこか遠慮がちで、それでいてとても優しい。
髪の中に手を入れて、弄ぶように指先を滑らせていくのは、彼の癖だ。
甘えて抱きついたの頭を、彼はいつもこんな風に撫でてくれていた。

何で…?

は訳が解らなかった。
彼がこの保健室にいる理由も、ずっと無視していた自分に優しくしてくれる理由も。

ガラッという、新たな人物が扉を開ける音に、彼はその手を離した。



さん、おうち誰もいないみたいだけど…、って、不二くん?どうしたの?」
保険医の声に、はやっぱり彼だったのだ、と思った。

「先生。さんの家は共働きなので、夕方にならないと連絡取れないと思いますよ」
「あら、そうなの?」
「彼女の具合はどうなんです?怪我とか…」
心配そうな周助に、保健医は柔らかい笑みで答えた。
「大丈夫よ。頭も打ってないし、少し足を捻っただけ。念のために病院に行った方が良いと思ったんだけど」
ほっと、周助が安堵の息を吐いたのが、ベッドの上にいたにも聞こえた。
「なら、僕が連れて行きます」
「え?」
保険医の疑問は最もだ。
クラスメートでもなく、何の繋がりもないはずの上級生が、見ず知らずの下級生の面倒を見ると言う。
そんな保険医の疑問を解消すべく、彼は自分との関係を説明しだした。
家族同然のお隣で、幼馴染みで、自分の姉が車を寄越してくれるだろう、と。



の帰り支度をしに行った保険医と、自分の帰り支度をしに行った周助に残され、は独り、ベッドの上でパニックになっていた。

何がどうなってるの!?

周助を無視し続けて既に半年以上、彼がこんなことをする理由が全く解らない。
確かにお隣で、幼馴染みのはずだ。
それでも、この4月からのことを考えれば、彼の行動は全く理解できない。

何で、周ちゃんがここに来たの?
何で、周ちゃんが私の心配をするの?
何で、周ちゃんが私のために、早退までするの?

周助はきっと怒っているか、呆れているはずだ。意味もなく自分を無視し続ける、馬鹿な幼馴染みに。
それなのに、自分に触れた彼の手は、確かに幼い頃から知ってる、彼の手だった。


ガラッ

扉を開ける音に、は再び布団に潜り込んだ。
どんな顔をしていいのか解らない。
ずっと避けていたのに、よりによって、こんな情けない状況で再会しなければいけないのは、ものすごく嫌だ。

、起きて。病院に行こう」
「……」
身体を固くしているに、きっと周助は気が付いているだろう。
、起きないと僕が抱いていくよ?」
「!!」
その瞬間、は布団を跳ね上げ、真っ赤な顔を周助と、保険医の前に晒してしまった。



肩を担がれるように、寄りかかって歩く。
心臓がドキドキするのは、歩くたびに痛む足のせいじゃない。
自分を支える彼の腕や、寄りかかった彼から伝わる、熱い温度のせいだ。





病院の待合室で、姉の由美子と並んで待つ不二の顔は、怖いほど真剣そのものだ。
姉が声を掛けるのを躊躇うほど、彼の身体からは、冷たいオーラが出ている。

よりずっと大きな男子が、彼女にぶつかった。
ぶつかって、が倒れて、すぐに人だかりができて、彼女が見えなくなった。
そのすべてがスローモーションのように、脳裏に焼きついて離れない。
気が付けば、廊下を走っていた。
久しぶりに触れたに懐かしさを感じるよりも、息をしている肩に安堵を覚えた。
保険医の言葉を聞いて漸く、止まっていた時間が動き出した気がした。



「もう!ただの捻挫なんだから、自分で歩ける!」
腕の中で暴れようとするをしっかりと抱き、不二はそっと、その身をソファーに降ろした。
彼女の足に何ひとつ負担を掛けないように、そっと。
まるで壊れやすいガラス細工を扱うように、そっと。
「ただの捻挫!」
頬を膨らませるにも不二は譲らない。
例え、医者が「大丈夫」と太鼓判を押し、湿布と3日分の鎮痛剤しか処方しなかったとしても、だ。

「おじさんもおばさんも帰って来られないんだから」
出張中の父親と、夜勤の母親で、1人っ子のは一晩、独りで過ごすことになる。
がうちに泊まるのを嫌がったんだよ?」
「ひとりで平気だもん!」
そんなの叫びを無視し、コンビニで調達した食材をレンジで温め始める。
「周ちゃんが泊まる必要なんて、ないんだからね!」
誰に何と言われようと、不二は独りを残して自分の家に帰るつもりはない。
例えそれが、何かあればすぐに駆けつけられるほど近い、お隣だとしても。



「周助、襲うんじゃないわよ」
由美子はそう言って、の荷物をその場に置き、お隣へと帰って行った。
そのときはまだ、周助に抱えられたままだった。

由美ちゃんのバカ!

由美子は冗談のつもりで言ったのだろう。
それでもは、その言葉に顔を真っ赤にし、一層早まる鼓動を抑えることができなかった。
周助が冗談のように由美子に微笑み返したのを見ていても、はただ、ドキドキするだけだった。







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