冬
男子テニス部の天才、不二周助は、1年の秀才、の騎士(ナイト)。
そんな噂は、あの騒動から3ヶ月も経つのに、未だに消えようとはしない。
期末試験やクリスマス、冬休みを挟んでも、2週間続いた不二のナイトぶりは、皆の記憶から抹消されない。
テニス部の練習を休んだのは、2日間だけ。
ごね始めたに不二が取った打開策は、朝練にも、放課後の練習にも、をつき合わせるという方法。
朝早く一緒に登校し、コート脇のベンチで練習の見学。
放課後も部活が終わるまで不二の目の届く所で見学、そうして一緒に帰っていく。
いくらが抵抗しても、不二がそれを譲らなかった。
湿布が外され、が走り出すようになって漸く、不二はを解放した。
「、帰るよ」
HRが終わると同時に1年の教室に顔を出したその姿に、周囲からは冷やかしの声が上がる。
キャーと叫ぶ女子に、ピューと口笛を鳴らす男子、肩をつつく隣の席の友人、そのすべてがは恥ずかしかった。
そんなとは対照的に、周助は涼しい顔でが出てくるのを、扉の前で待っている。
怪我は治った。大体、ちょっと捻っただけだ。
そんなのが、3ヶ月も続くわけない。走るのも、飛び跳ねるのも、問題ない。
そんなことは、不二だって解っているはずだ。
それなのに、こうして部活がない放課後、彼は友達と遊ぶこともせず、を迎えに来る。
が先に逃げたこともあった。
そんなときは電話攻撃が続き、挙句の果ては家のチャイムを鳴らす始末だ。
「どうして先に帰ったの?」と責められても、約束などした覚えのないは、ただ文句を言うばかりだ。
そんなに周助は怒ることもせず、終いにはが怒り出す。
「周ちゃんなんて、大嫌い!」
そんなセリフをこの3ヶ月、何回叫んだだろう。
並んで校門をくぐる2人の姿に、周囲がひそひそと噂している声が、の耳にも入る。
この地獄耳の男に、それが聞こえていないはずないのだ。
なのに、周助は涼しい顔で、ただ、の歩調に合わせ、歩いていく。
「いい加減にしてよ!」
家の前まで辿り着き、は周助に向かって叫んだ。
「何のこと?」
「こんな仕返し、もうたくさん!」
「仕返し?」
仕返しとしか思えない。ずっと無視し続けたに対する、周助のお仕置きとしか。
こんなんでは、忘れたい想いも忘れられなくなってしまう。
「無視してたことは謝るけど、もういいでしょ!」
「やっぱり無視してたんだ」
「う…、それは…」
視線を逸らしたに、周助は意地の悪い笑みを浮かべた。
「青学に入ることをずっと隠してた、が悪いよね?」
「そうだけど!でも、周ちゃんだって悪いもん!」
「僕が?」
「私のこと、迷惑ならはっきり言えばいいじゃない!嫌いなら、嫌いだって…っ!」
自分で言っていて、は悲しかった。
例えそうだと思ってはいても、こうしてはっきり口に出してしまうと、余計に惨めになる。
「僕がいつ、迷惑だとか嫌いだとか言った?」
「だって、そうだもん!」
泣きそうになる。涙を押さえ込むことになんか随分慣れたはずなのに、震えてしまう声を隠し切れない。
「もう、妹を心配してくれるお兄ちゃんなんか要らない!もう、子供じゃない!」
「は僕の妹じゃないし、僕はのお兄ちゃんなんかじゃないよ?」
「…っ!」
もう、溢れてくる涙を抑えることなんてできなかった。
妹じゃない。兄じゃない。幼馴染みとしての関係がないのなら、自分と周助は、ただの他人だ。
そうはっきり言われたのだ。
玄関の前に立つ周助を見ることもなく、はそのドアノブの手を掛けた。
「周ちゃんなんて…、もう、要らない!」
バタンと扉を閉めた瞬間、はドアノブから手を離すこともなく、その場に崩れ落ちた。
目の前で閉まった扉が、もう永遠に開かないような気がした。
「…っ、…ひっく」
溢れ出る涙も嗚咽も、もう抑えきれない。
でも、もう、構わない。
ここに、彼は、いないのだから。
バタンと、まるで壊れるように閉じられた扉の向こうで、はきっと泣いているのだろう。
扉を閉める瞬間、俯いていたの頬に、涙が光っていた気がした。
「周ちゃんなんて、要らない!」
いつもの「大嫌い」ではなく、「要らない」だ。
それは一体、何を示しているのだろう。
閉じられた扉の前で、不二はただ、その向こうにいるを思った。
が生まれた日のことは覚えていないけれど、気が付けばこの手には、小さなの手が繋がれていた。
ワガママで、甘ったれな。
自分勝手に怒って、泣いて、すぐに甘えてくる。
鬱陶しく感じたことも、迷惑に思ったことも、頭が痛くなるほど困ったこともある。
それでも、憎めない。自分に寄り添ってくるは、やっぱりかわいい。
同じ学校に来ると知って、地獄のような日々を呪った。
でも、いざその日々が来れば、まるで他人のように避けられる日々は、別の意味で地獄だったのかもしれない。
何かが足りなくて、そこにあるのに手が届かないもどかしさ。
自分の隣にあるはずの当たり前の何かが、欠けている不自然さ。
それを埋めるものは全部、この閉ざされた扉の向こうにある。
「」
扉のすぐ向こうに彼女がいることを願って、不二は呼んだ。
その声が、彼女に届くことを願って。
「、要らないなんて言わないで」
本当に届いているのかは、判らない。
はとっくに家の奥へ行っているかもしれないし、扉越しでは声は聞こえないのかもしれない。
それでも不二は、話し続ける。
「僕にはが必要なんだよ?」
扉の向こうにいることを願って、不二は手を当て、身体を寄せる。
この一枚の扉越しに、どうかこの想いが伝わることを祈って。
「は妹じゃないよ?僕の一番大切な女の子なんだから…」
「好きだよ、」
いつからなんて解らない。
幼い記憶を辿る限り、は不二の幼馴染みで、妹のような存在だった。
ドアノブに手を掛ければ、鍵は掛かっていない。
そっと開いた扉の向こうで、涙でクシャクシャのを見た途端、不二は微笑んでいた。
幼馴染みで、妹のようで、ずっと一番近くにいた女の子。
僕の手に繋がれて、僕の胸の中で甘えてきた、とても大切な女の子。
幼馴染みでも、妹のようでも、それが何よりも一番の真実だ。
彼女の手が、自分以外の男に繋がれるのは、想像ができない。
彼女が他の男に甘えるのは、我慢できない。
この小さな手も、この涙に震える身体を抱きしめるのも、他の男に譲ることはできない。
それは、一生、この僕の役目なんだから。
溢れ続ける涙を拭うこともせず、玄関に座り込んだままのを、不二はそっと抱きしめた。
「好きだよ、」
夢を見ているのかもしれない。
彼にこんな言葉を囁かれ、この腕に包まれる。そんな場面を、何度も夢に見た。
頬を伝う涙の熱さも、耳をくすぐる彼の声も、すべてが現実じゃないのかもしれない。
それでも、この掴んだ手を、離したくない。
は必死に、周助にしがみついた。
その手に握ったものを2度と、離さないように。
例えそれが夢でも構わない。この手を離さなければ、夢は覚めないのだから。
「妹じゃないよ!幼馴染みだけじゃ、やだぁ」
「うん」
涙交じりに叫ぶの頭に、周助の唇が触れた。
「…っ、周ちゃんの好きは、私が欲しい好きじゃないくせに…っ」
「じゃあ、はどんなのが欲しいの?」
ケンカをした後、なだめるように言う「好き」じゃない。
甘えるを、安心させるために言う「好き」じゃない。
そんなんじゃ、イヤなのだ。
が欲しいのは、この世でたったひとつの、特別なもの。
他の誰に向けられる「好き」とも違う、自分だけに向けられる特別なもの。
「周ちゃんが、好きなの…」
「うん、僕もが好きだよ」
「違う。私は、周ちゃんだけが、好きなの。他の誰かじゃイヤなの」
「うん、僕も他の誰かじゃダメだよ」
涙が止まらないに微笑み、周助はそっと、その唇に触れた。
「…周ちゃん?」
「だけが、好きだよ」
ただそっと触れるように、周助は唇を重ねた。
「……」
自分の身に何が起きたのか、は解らなかった。
涙の向こうで周助が微笑んで、唇を指でなぞって、だんだん顔が近付いて…。
「うわっ!今、今、キス…っ!」
パニックになるに、周助はただ、微笑むだけだ。
「うん。キスしちゃった」
後ろ手で玄関を閉め、周助は床に座り込んだままのを持ち上げた。
自分の膝の上に乗せ、しっかりと腰を抱き、鼻が触れるほど顔を寄せる。
「周ちゃん、あの、その」
周助に抱きついたことなど、数え切れないほどあるというのに、
彼の膝の上にいるの手は、どこに掴まっていいのか分からず、宙をさまようばかりだ。
「あの、周ちゃん、あのね。だから…その」
息がかかるほど近付いた顔に、はパニックだ。
「ねぇ。もう1回したいんだけど」
「え…?…んっ!」
の返事を聞く間もなく、再び周助の唇が触れる。
今度はただ触れるだけのキスじゃない。唇を舐め、舌を差し込み、逃げ惑うの舌を追い回す。
「…んふっ、…う、んっ…!」
何をすればいいのか解らない。
ただにできるのは、彼の膝から落ちないよう、必死にしがみつくだけだ。
「…っはぁ、…はぁ」
漸く離れた唇に息の乱れるとは対照的に、周助は涼しい顔で、嬉しそうに微笑む。
「ねぇ、このまま押し倒しちゃ、いくらなんでもヤバイよね?」
「な…っ!」
涙はとっくに引っ込んだ。
大きく開けた瞳に映る周助は、とても楽しそうに見える。
「からかわないでよ!どうせ馬鹿にしてるんでしょ!」
「そんなつもりはないんだけどな」
そう言う周助の顔はやっぱり笑っていて、は赤い顔をさらに真っ赤にし、大声で叫んだ。
「周ちゃんなんて、大嫌い!」
お決まりのセリフにも、周助は微笑む。
「うん。僕もが大好きだよ」
大好きだよ。
わがままで、甘ったれで、泣き虫で、子供みたいで、そんな君の笑う声を、他の誰かに譲ることなんてできないから。
妹でも、幼馴染みでも、お隣さんでも、何でも構わないんだ。
大切なのは、君が僕の隣にいることだから。
The END