アイツと、白




テニスなんて、全然興味なかった。
学校中の女の子が男子テニス部に夢中でも、私の憧れは、丸坊主の田中くん。
目立たない地味な野球部で、頑張っているピッチャーの田中くん。
そんな私が、『初心者のためのテニス入門』なんて本を買っちゃったのは、アイツのせい。



クゥーン…。
鼻を鳴らして擦り寄ってくる姿がかわいくて仕方ない。
どちらかと言えば、犬より猫派。
それなのに、初めて親に土下座までしたし、大嫌いな早起きまでしちゃってる。
机の脚は、噛み痕でボロボロだし、部屋のあちこちが、ついこの前までおしっこ臭かった。
ようやっと覚えたトイレの後始末だって、今となっては慣れたもの。
右耳だけが垂れて、鼻がつぶれた、ちょっとブサイクなこいつが、今はかわいくて仕方ない。
「お散歩、行こっか。シロ」
真っ白な毛をしているからシロ、なんて、我ながら安易なネーミングだとは思うけど、
千切れるんじゃないかってくらい尻尾を振るこいつは、もう「シロ」という自分の名前を覚えちゃってる。
ころころと太った体で走り寄って来るこいつは、ただの雑種犬だ。
チワワでも、トイ・プードルでも、フレンチ・ブルドックでもない。
何が混ざってるんだか、親犬も知らない私には判りようがないけど、こいつは私の「シロ」に間違いはない。



「でっかい欠伸さんやな」
退屈な音楽鑑賞の授業に、欠伸と共に出た涙目で横を見れば、そこには笑いを噛み殺した忍足の姿がある。
、一応女の子なんやし、手で隠すとかした方がええんとちゃう?」
余計なお世話だと言うように、は隣の忍足を無視し、退屈な音楽へと意識を集中させた。
誰のせいで、寝不足だと思ってんのよ。
正確に言えば、寝不足なのは、遅くまで耽った読書と、シロの早朝散歩のせいで、忍足には関係ない。
それでも、その読書もシロの散歩も、に言わせれば、全部忍足のせいだ。
視聴覚室に奏でられるクラシックも、どこか外国の作曲家の伝記映像も、まるで子守唄だ。
大きな欠伸を噛み殺し、は頬杖をついた。

『初心者のための』なんて嘘ばっかり。本を読んでも、ちっとも解らない。
家に帰れば、冷たい風の中での散歩を、やんちゃ盛りの仔犬が心待ちにしている。
涙の溜まった目はトロンとしてくるし、暖房の聞いた部屋は、眠りを誘っているようにしか思えない。

重くなる瞼に逆らうことなどできず、はそのまま、午後の転寝へと落ちていった。





冷たい雨が降る、薄暗くなった公園は、家へと帰る近道で、がそこを通るのは、いつものことだった。
部活で遅くなった帰り道、寒さから逃げ、温かい夕飯を求めて、は公園を歩いていた。

「お前、ブサイクやから、残ってしもうたんやな」
東京では聞きなれない関西弁を耳にし、は足を止めた。
そのイントネーションも、声も、毎日のように聞いているような気がしたからだ。
「こないにかわええのにな。きっとすぐに、ええ飼い主さんが見つかるで?」
傘に隠れて見えないが、ブランコの片隅でしゃがんでいるのは、確かに同じ学校の生徒だった。
「俺は飼ってやれへんし」
その声の主を確かめようと、は一歩踏み出した。
「せやから、これで堪忍な?」
昼間から降り続ける雨は、その勢いを少し弱めたが、それでも地面を弾く雨音は、未だ鳴り止まない。
それでも彼は、自分の傘を、目の前の地面に立て掛けた。
「早う、別嬪さんに見つけてもらい?」
もう一歩踏み出したは、思わず木の影に隠れてしまった。
何だが、いけないものを見たような気分がする。

隣の席で、毎日ふざけているような生活を送っているクラスメイト。
そんな彼は、びしょぬれで、その表情は、どこか寂しげで、切なげで…、
悩みなどないように、いつも笑っている、が知る「彼」ではなかった。
大きな両手の中には、雨に濡れ、汚れた小さな仔犬。
そのつぶれた鼻先にチュッとキスをする彼は、絶対、見てはいけないものだった気がする。

仔犬をダンボールに戻し、雨の中を走って去っていく彼を、はそのまま、木陰に隠れて見ていた。


「…本当にブサイクね。あんた」
ダンボールの中で尻尾を振る仔犬は、泥と雨に塗れ、グシャグシャに汚かった。
半分だけ曲がった右耳も、つぶれた鼻も、かわいくない。
それなのに、大きな男物の傘の下で、紺色のマフラーに包まれて、尻尾を振る仔犬を、は思わず抱きかかえていた。

暴れる仔犬に傷を付けられながら、汚れを落とせば、真っ白な毛並みが現れて、
それでも半分垂れた右耳と、つぶれた鼻は、やっぱりブサイクで、ドライヤーの音にビクビクするその姿に、は、笑っていた。
仕事から帰った親に土下座をし、ブサイクな仔犬は、家族になった。
「シロ」と名付けたのは自身で、安易でもありきたりでも、それがぴったりのように思えた。

フワフワになった体を両手で抱きかかえ、そのつぶれた鼻に唇を近付ける…。



カクン


そんな衝撃で、2週間前の記憶を回想するような夢は終わりを告げた。
「ブ…」
支えを失った頭を横に向ければ、腹を抱える失礼な忍足が目に入り、は机に突っ伏した。

フレデリック・ショパン作曲、雨だれのプレリュード。
こんな夢を見たのは、この音楽のせいだ。

情けない居眠りと、お決まりのような目覚めを見られ、真っ赤になる顔を見られないように、
音楽が鳴り止むまで、はそのまま両腕で顔を隠し続けていた。



どうでもいい馬鹿なクラスメイトの意外な一面なんて、絶対に見るものじゃない。
ましてそれが、雨の降る公園で、他には誰もいなくて、隠れてこっそり見ていたなんて、最悪だ。

野球部の田中くんにドキドキしていたはずなのに、テニスなんて、全然、全く興味なかったはずなのに。
猫派のくせに、ブサイクな雑種犬を、両親に土下座までして飼っちゃったし、
そのブサイクなシロの、つぶれた鼻に、誰かさんみたいにキスしようとするなんて…。
雨と泥でグシャグシャの紺色のマフラーを手洗いしたり、その紺色のマフラーが未だ机の引き出しにあったりするのも、
全部、全部、変なことだらけ。

シロに触れるたびに、思い出すように感じるドキドキも、
田中くんじゃないアイツに、何故かするドキドキも、
全部、間違ってる。全部、気のせい。
だけど、ドキドキするこの胸は本当で、だから、絶対に、見ちゃいけなかったんだ。
あんなアイツなんて…。






「あぁ〜!何であんなことしちゃったの!?」
新しい年を迎えたばかりのその日、は独り、頭を抱えていた。
正確に言うならば、困り、叫んでいるのは1人だが、
その横で何か面白いものでも見るように目をキラキラさせている真っ白な仔犬が1匹、そこにいる。
「どうしよう、シロ!もう、何であんな馬鹿なことしたんだろう…!」
ここ数日、は毎日のように、同じことをシロに愚痴っている。
昨年から同じように後悔し、同じように叫び、同じようにシロに話しかけている。
もうしてしまった、取り返しのつかないことを、こうして新しい年を迎えてもなお、悔やんでいる。

目の前に並べられた年賀状。
元旦という日にも拘らず、郵便局の人が働き、こうして届けられた、年賀状だ。
去年のうちに書かれた『おめでとう』を見る度に、の後悔は募るばかりだ。
目の前に並ぶ年賀状たちには、何の後悔もない。
友人や従兄妹からの『おめでとう』も、ケイタイに届いた『おめでとう』も、何の問題もない。
問題なのは、もう、この手の届かないところへ行ってしまった、年賀状。

「もう!どうしよ…」
シロを抱え、はブンブンと頭を振る。シロの尻尾にも負けないくらいの勢いで。
「大丈夫だよね?…だって、分んないよね?」
ペロペロと手を舐めるシロは、の質問に興味などない。
『ダイジョウブダヨ』でも、『ダメナンジャナイノ』でも、ない。ただ、じゃれているだけだ。
「…うん!きっと、大丈夫!絶対分らないもん」
は無理矢理、自分自身に言い聞かせていた。



12月24日、世間がクリスマス・イヴに沸く日、は1枚の年賀状の宛先を書いていた。
クラスメイトの住所録を引っ張り出し、初めて書くその住所を、丁寧に、丁寧に、真っ白なハガキに書き込んでいた。
「……できた」
今まで知ろうともしなかった彼の住所と、最近気になりだした彼の名前、『忍足 侑士』サマ。
裏を返せば、そこにあるのは、ハガキいっぱいにプリントされた写真と、『A HAPPY NEW YEAR!』の文字だけ。
表にも裏にも、差出人の住所も名前もない。

何であんなことをしてしまったのか、にも解らない。
たくさんのクリスマスプレゼントに囲まれる忍足に、何故かムカついたからなのか、
忍足の首に巻かれた、ファンの子からのプレゼントのマフラーが、何となく悔しかったからなのか、
あんたのマフラーは、ここにあるんだよ、って、叫びたかったからなのか、
皆が知らない忍足を知ってるんだから、って、何となく優越感に浸りたかったのか、
その気持ちはごちゃごちゃしすぎて、全然理解できない。

紺色のマフラーに包まって、半分だけ曲がった右耳と、つぶれた鼻のブサイクな仔犬の、写真。
雨の公園で鳴いていたころよりも大きくなって、コロコロして、寒さや空腹に泣くことはない。
ちっともじっとしていないおかげで、押さえるために伸ばされた左手に、前足と歯でじゃれついている。

ただ、知っていてほしかった。それだけは、真実だ。
雨の公園で、自分が濡れるのも構わずに、マフラーと傘を差し出した、ブサイクな仔犬の今を。
公園の枝に残してきた傘だけじゃ伝えきれない、この仔犬の未来を。

ねぇ、忍足。あんたが心配していたコイツは、こんなに元気だよ。

差出人の住所も名前もない、写真に写った左手だけが、の自己主張だ。




ワン!
「ん…、うるさいよ。シロ…」
ワン、ワンワン!
寝不足だったここ数日を取り戻すように、元旦の陽気に昼寝をしていたを起こしたのは、シロの鳴き声だ。
バン!
!あんた、彼氏がいるなら、ちゃんと言いなさい!」
騒がしい足音と共に、騒がしく開けられた扉では、母親が興奮している。
「…正月から何言ってんの?眠いんだから…」
騒がしい母親をちらりとだけ見て、再び枕に突っ伏したに、母親は大きな溜息を吐いた。
「あんたね〜、せっかく迎えに来てくれてるんだから、急ぎなさい!」
「…何言ってんの?」
友達との初詣の約束は明日だし、母親の言うようなカレシなんて、生まれてこの方、いたためしがない。

尻尾を振り、周囲を走り回るシロと、タンスからセーターとコートを出していく母親に、は急き立てられた。
「あぁ、もう、寝癖が酷いじゃない」
「……」
そんなことを言われても、たった今まで、寝ていたのだ。訪問客なんて、予定に入っていない。
「…これで、ヨシ!」
ボスッと頭に被せられた帽子に、視界が消えた。
「ごめんなさいね。お待たせして」
帽子を上げ、広がった視界の中にいたのは、

「気にせんとって下さい。いきなり来たんが悪いんですし」

アイツだった。



「ごゆっくり〜」なんてご機嫌な母親に送り出されたは、忍足の後をついていくしかなかった。
財布ひとつ持ってこなかったし、彼がここに来た理由も気になる。
当然のように後をついてきたシロは、忍足を覚えていたのか、寒い公園でじゃれ合っている。

「えろうプクプクしよって。ええもん食わしてもろうとるみたいやな」
ワン!
飼い主といるより、嬉しそうにはしゃいでいるバカなシロが、面白くない。
でも、それよりもっと面白くないのは、シロがいることに全く驚いていない、忍足侑士の態度だ。
「うわッ、やめって」
シロに飛びつかれ、尻餅をついた忍足は、顔中を舐め回されている。
いい気味だ。シロは気が済むまで、あのペロペロ攻撃を止めない。
ベタベタになっちゃえばいいんだ。
、お前さん、躾が甘いんとちゃう?」

「…新年早々、わざわざ何の用?」
冬休みで、しかも今日は新年一発目の日で、会えて嬉しいはずなのに、睨みつけてしまっている。
ただのクラスメイトにドキドキする理由に、何も気付かないほど、だって鈍くはない。
それでも、気付かないふりを自分に言い聞かせるように、は忍足を睨みつけていた。
「熱烈な年賀状、もろうたから、お返事せなあかんと思うてな」
「な…!?」
忍足がポケットから取り出したのは、間違いなく、あの、年賀状だ。
グチャグチャな気持ちのまま投函し、そのままずっと、後悔し続けてきた、あの年賀状。

「…差出人、書いてなかったと思うんだけど」
胸がドキドキする。イタズラがバレた子供みたいに、悪いことをした気分。
「何や、書き忘れたんかと思うとったんやけど、ワザと書かなかったんか」
ピラピラと年賀状を揺らしながら、ニヤニヤする忍足は、絶対に確信犯だ。
差出人をワザと書かなかったのも、その理由も解っていて、態々、嫌味を言いに来たのだ。
「何で私だって解ったの?」
「そりゃ解るやろ」
じゃれつくシロを片手で抱え上げ、忍足はベンチに腰掛けた。
「筆跡やろ、ここにばっちり手も写っとるし…」
「……」
忍足の言うことは嘘だと、にだって解っていた。
別には特徴のある文字をしているわけではないし、その宛名はいつもよりずっと丁寧に書いたのだ。
普段のくせなど、出ているわけない。プロが筆跡鑑定でもしない限り、判るはずないのだ。
それに、1枚の写真に写った左手だけで、が解るほど、親しい付き合いをしているわけでもない。
と忍足は、ただのクラスメイトで、お隣の席なだけ。ただ、それだけの関係だ。
「……」
じっと睨みつけるに、忍足は小さく溜息を吐いた。

「なんてな、嘘や、嘘」
やっぱり。
「前から知ってたんや」
何を?
「このチビ、拾ったんが、やってこと」
…はい?
「けったいな雨降っとったし、一晩くらいならバレへんかも、って思うてな」
「…まさか、戻ってきたの?」
「すぐな。そしたら、がコイツ連れてくとこやった」
「じゃぁ、初めっから…」
「知っとった」

一気に身体中の熱が、顔に集まった気がした。
わざわざテニス部の朝練より早く起きて、会わないようにしていたのも、
誰にも知られないように、紺色のマフラーを大事にしていたのも、
年賀状1枚にドキドキして、寝不足になるほど後悔していたのも、
全部、無駄だったのだ。
彼は何もかも知っていて、私は何も知らなくて…。
早鐘のように打つ心臓と、恥ずかしくて真っ赤になる顔を隠すように、は帽子を引き下げ、視界を遮った。

、何も言わへんし、俺がコイツ気にしてたん、知らん思うてたんや」
両手で帽子を押さえ、その顔の半分を隠してしまったに近付くため、忍足は腰を上げた。
「それなんに、俺が犬のこと聞くんも、何かおかしいやろ?」
歩き出した忍足の周囲を回りながら、シロも尻尾を振りながら近づいてきた。
「気になってたんやけど、お前さんのことやから、チビ、かわいがってくれとると思うてたし」
俯いたままのの目の前で足を止めた忍足は、自分より小さなその顔を覗き込むために、膝を曲げた。
「せやけど、年賀状でお誘い受けたしな。早速会いに来たで?」
「誘ってなんかいない!」
帽子で顔を隠したまま、叫んだに、忍足は微笑んだ。


解ってる。
忍足が会いに来たのは、シロにであって、私に、じゃない。
忍足が心配してたのも、会いたかったのも、シロ。私はただの、オマケ。

それでも、学校がない冬休み、それも新年を迎えた初めの日に、こうして会いに来てくれた。
必死になってシロのことを隠してた自分はバカみたいだけど、
恥ずかしくて、バカみたいで、やっぱり顔は合わせられないけど、
それでも、この胸のドキドキは、きっとそれだけのせいじゃない。
頬が真っ赤なのは、寒さのせいだけでも、恥ずかしさのせいだけでもない。
きっとこれは、ブサイクで真っ白な仔犬が運んできた、ドキドキのせい。


、あけましておめでとさん」
ポンと叩かれた頭から、帽子越しの体温が伝わって、の心臓はドキンと、大きく鳴った。

「あけましておめでとう、忍足」

小さく呟いた声は、もしかしたら、多分、きっと、…アイツに届いてる。







                                                                         戻る