2月



例えば、日本中の恋する乙女達がチョコレートを胸に、頬を染めるその日の前日。
土曜日だというのに、部室に詰まれたチョコレートでいっぱいの段ボール箱を見ながら、私はどうすればいいのだろう。
部活の後、訪ねた彼の部屋で、ダンボール2箱分の乙女達の想いを見て、一体何を思えばいいのだろう。


「…すごい量」
「欲しいのがあったら持ってっていいぜ」
「そんなわけにいかないでしょ!」
「ア?チョコレートが好きなんだろ?」
そういう問題ではないだろう。
たくさんのチョコレートに見向きもせず、普段と変わらない様子で食事をする向かいの人物が、は不思議で仕方ない。
バレンタイン・デーに、段ボール箱いっぱいの想いを貰う気分は、一体どんなものなのだろう。
それを全く気にも留めず、自分と食事をしている彼は、一体何を考えているのだろう。

「…ここでまで、チョコかよ」
シェフの出したデザートに、跡部が眉を顰めた。
様がお作りになられたものですよ」
わざわざ言わなくてもいいのに…。
にっこりしているシェフと、得意そうに自分を見ている跡部の視線が何だか気恥ずかしく、は下を向いた。

「こちらは景吾様のリクエストです。様に、と」
自分の前に置かれたデザートを見たとき、は思わず、跡部に視線を合わせてしまった。
「…知ってたの?」
「当然だ」
綺麗なチョコレートでコーティングされた小さなケーキに、「Happy Birthday」と書かれたチョコレートのプレート。
話したことなどなかった。
それでもこうして用意してくれた跡部に、は驚きと同時に、嬉しさが込み上げてきた。
「早く食えよ。お前好みの味のはずだぜ?」
「…食べるの、もったいないよ」
額に入れて取っておきたいほど、にはそれが眩しく見えた。
跡部に促されて口に運んだそれは、本当に好みの、美味しいチョコレート・ケーキだった。

朝、鏡に向かって、「ハッピーバースデー」と、自分に呟いた。
他人から贈られる「ハッピーバースデー」は、今日、初だ。
それだけじゃない。
こうして自分の誕生日を誰かに祝ってもらうのは、にとって、2年ぶりのことだった。




名前を呼ばれ、は跡部の座るソファーに、歩み寄る。
隣に腰を下ろせば、肩に腕が回り、は自分の頭を跡部の肩に預ける。

学校ではほとんど話もせず、呼ぶときも「」だが、こうして2人だけでいるとき、跡部は「」と呼ぶ。
自分の手が届く場所にを置きたがり、離れていれば強引にでも自分の側に近付ける。
クリスマス・イヴのあの告白以来、跡部は何も言わない。
だが、名を呼ばれるたび、自分に触れられるたび、そこから想いが伝わってくる気が、にはしていた。
亜樹のことは確かに問題だ。
それでも、あれ以来一切、他の女性の影が見えない跡部が、は嬉しかった。
週末だけの2人きりの時間も、毎晩眠る前にかかってくる彼の電話も、楽しみにしていることに、は気付いていた。
誤魔化して、甘えて、有耶無耶にし続けていればいいのかもしれない。
だが、それ以上を欲しがってしまう自分がいるのも、また、現実だった。

自分の肩を抱く跡部の腕に、は触れた。
服越しでも判る、鍛えられた、自分とは違う腕。その腕が、今、私だけを抱いている。
?」
物珍しいものでも見るかのように、自分の腕に触れるを、跡部は覗き込んだ。
は跡部の腕から手を離し、自分を見つめるその男を見た。
「どうした?」

どうしよう。ものすごく嬉しいかも。
この跡部景吾が、自分を想い、気に掛けてくれている。
この男は、私に惚れちゃってるんだ。
すごく誇らしくて、…熱い。

嬉しそうに、本当に幸せそうな、そんなの笑顔を、跡部は初めて見た気がした。
が身体を動かし、自分の肩に手を置いてきたときも、跡部はまだその衝撃の中にいた。
「跡部君」
「……」
の顔が近づいてきたときも、そっとその唇が重なったときも、頬を染めたが恥ずかしそうに自分の胸に顔を埋めたときも、
跡部は目を見開いたままだった。


数分なのか、それとも数秒のことだったのか。お互いの鼓動だけがその場を支配する時間が過ぎた。

漸く自分の身に起きたことに気が付いた跡部は、その出来事が現実であることを確かめようとした。
胸に顔を埋めたままのの肩を掴み、その顔を覗き込んだ。
顔を真っ赤にし、下を向いたまま視線を合わせようとしないに、跡部は、今度は自分から、その唇を重ね合わせた。
それまでも、は跡部が贈るキスに抵抗したことはない。
それでも、首に腕を回し、応えてきたのは、これが初めてだった。
唇を離し、の顔を見れば、やはり真っ赤になり、視線を逸らしてしまう。
それを見るのが嫌で、跡部は再び唇を重ね合わせた。
舌先での唇をなぞり、開かれた口内にその舌を押し込んでも、は抵抗しなかった。
歯列をなぞり、上顎を撫で、逃げ惑うの舌を追うように絡めても、は絡めた腕を離しはしなかった。


気の遠くなるような長いキスの後、跡部はの後頭部を押さえ、自分の肩口に顔を埋めさせた。
もう、が自分から視線を逸らす姿を見るのは、嫌だった。
今までずっと、あのイヴの告白から、真っ直ぐに彼女を見続ける自分から、視線を逸され続けてきたのだ。
もうこれ以上、そんなことをさせるつもりも、それを見て苦しい思いをするつもりもなかった。
右手で後頭部を押さえ、左腕でしっかりと上半身を抱き、自分の膝の上にいるの耳元に、跡部は唇を寄せた。

「お前は俺の女だ。そうだよな?」

の返事はなかった。
だが、首に回した腕に力込め、は跡部にしがみついた。
跡部の腕の力が弱まり、ただ腰に添えられるだけになっても、は跡部にぎゅっとしがみついたままだった。




…、
「…んっ、跡部、君…っ」
何度も自分の名を呼ぶ跡部の背中に回した腕に、は力を込める。
熱い。
彼の腕が触れる場所も、唇が這う場所も、彼と触れ合うすべての場所が熱くて仕方なかった。
名前を呼ばれるたびにまた新たな熱が湧き上がる。
その度に熱い吐息がかかり、の熱を上げていく。


の瞳に親指を当て、そこから溢れ出す涙を拭った跡部は、その濡れた頬にキスをする。
、景吾だ。景吾って呼べ」
「……景吾…」
瞳を潤ませ、自分の下で囁くように言ったに、跡部は嬉しそうに微笑んだ。
「いい子だ」
自分の名を呼んだに褒美のキスを与え、跡部は再び、に熱を送ることに専念しだす。
できるだけ痛くないように、苦痛がないように、と、優しく、丁寧に、労わるようにに触れていく。
だがそれでも、溢れ出す熱情を抑えることはできない。
走り出しそうになる自分を必死に抑えながら、跡部は優しく、それでも激しく、を自分のものにした。



自分と同じベッドの中で眠る女の存在に、跡部は感じたことのない充足感に浸っていた。
今までの状況に不満がなかったといえば、正直、嘘になる。
身体を重ねることはなくても、それでも一緒にいられることに、それなりには満足していた。
それでも、本当に求めていたのは、パジャマ越しではなく、こうして素肌で触れ合い、そのまま眠ることだ。
抱きたかった。
隣で眠るに、何度、無理矢理にでも抱いてしまおうかと思ったか知れない。
それでもそうしなかったのは、ただ、傷付けるのがいやだった。嫌がる姿を見るのが耐えられなかった。

望んだのは、無理矢理繋げる身体だけの関係ではない。
欲しかったのは、自分の名を呼び、自分の想いに応える、だ。

枕に頭を埋め、うつ伏せで規則正しい寝息を立てるの背中には、跡部が咲かせた華が2つ、ある。
が仰向けになれば、それ以上の華が、その白い肌に咲いているだろう。
どこにその印をつけたのか、跡部ははっきりとは覚えていなかった。
ただ、が反応する場所に、夢中で唇を寄せていた気がする。
それを忘れないように、そこに触れられるのは自分だけだ、と証明するために。
背中に咲かせた華に唇を寄せようとして、跡部は自分の背中に痛みを感じた。
その微かな痛みさえも、嬉しくなる。
が自分に残した爪痕は、自分は彼女のものだという印なのだから。

「ん…」
背中に口付けた跡部に、が身動ぎする。
跡部はそんなを自分の腕の中に納め、しっかりと肩まで布団を上げ、重たくなってきた瞼を閉じた。

雪消月とも云われるその月の夜、窓の外ではまだ、樹々達がその寒さに耐え忍んでいる。
だが、凍てつくような冷たい風は、ここには届かない。
こうして触れ合っている限り、2人の間では、確かに雪は溶け、消えていくのだろう。







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