7月
世間は夏休み。
大量の宿題に頭を悩ませながらも、学生達はその長い休日に浮かれる時期だ。
それでも、ここにひとり、バスの中で暗い顔をしている人物がいる。
期末考査の結果にも、通知表の数字にも満足している。結果は2位でも、落ちなければ別に構わない。
夏休みに入ったら、まず宿題を片付けて、それ以降はバイトに勤しめる。
そう考えていた彼女は、今、憂鬱な気分でバスに揺られている。
遊びに行くわけでも、旅行に行くわけでもない。このバスが向かうのは、『合宿』という名の地獄だ。
「はい、さん。これ、献立」
前の席から渡された紙を見て、は蒼くなる。
「何、これ。何でずっと食事当番なの?」
ずらりと書かれた30名以上の1週間分の食事リストを見て、はそれを渡した人物を見た。
「だって献立考えたの、さんじゃない」
それだけ言って自分の席に座った彼女を座席越しに睨みながら、は心の中で呟いた。
押し付けたくせに…。
人数が多すぎるため、その選ばれた実力者達だけで行われる合宿には、当然マネージャーも数名、参加する。
は、自分は参加しなくてもいいのだ、と思っていた。
マネージャーは10人以上いるし、一番下っ端の自分が参加する必要はないだろう、と。
だが、今はこうして合宿所へ向かうバスの中にいる。
学校に残りたいという希望も聞き入れられず、こうして夏休みに入りすぐ、膨大な炊事に頭を悩ませている。
食材は運ばれてくるというのだから、それは助かる。
それでも毎日3食、30人以上の食事を作らなければいけないことに、は大きな溜息をついた。
部員達が早速の練習へと励む中、は大量の食材を前に頭を抱えた。
カレーにでもしときゃ良かった…。
部員達の健康と栄養バランスを、と考えた献立が、仇になって還ってきたような気がする。
「手伝うわよ」
「山之内先輩…」
エプロンを持って台所へ入ってきた人物に、は正直ホッとした。
先輩である、しかも2年のマネージャー代表である彼女に手伝わせるのは何だが、1人ではどうしようもなかったのだ。
「ありがとうございます。助かります」
「大変だものね。何をすればいい?」
「…ジャガイモを洗って、皮を剥いていただけますか?」
食材を見渡し、そう言ったに、山之内は笑顔で頷いた。
「…手際いいわねぇ」
葱をリズム良く刻んでいくの手元に、山之内は味噌を溶かしながら、感心していた。
「独り暮らしなので」
「じゃあ大変でしょう?」
「そうでもないですよ。結構自由気ままにやってますから」
山盛りになった葱を鍋に放り込み、蓋をしたは、その隣でゆだっていたジャガイモの水気を切った。
火に掛けて水分を飛ばせば、粉ふきイモの完成だ。
大根と豚肉の煮物、粉ふきイモ、ひじきと蒟蒻、人参を入れた白和えに鯖の唐揚げ。
これに揚げと、豆腐の味噌汁、白米が付けば、立派な夕食の完成だ。
「やっと終わったわね」
「はい」
ずらりと並んだ全員分の食事に、は満足感を覚えていた。
初めて使う大鍋には苦戦し、かなり時間は掛かったものの、それでも中々の出来栄えだ。
「お代わり」
差し出された茶碗にご飯を盛りながら、は2時間の成果があっという間に消えていく様を見ていた。
頑張る彼らの栄養へと変わっていくのは嬉しいが、できればずっと並べて眺めていたいとさえ思う。
くたくたに疲れた彼らがそれを味わうことより、空腹を満たすことの方が重要なのは理解できるが、
それでも2時間の成果が30分も経たずに消えていくのは、どこか寂しい。
先取30名とマネージャー7名、顧問1名、計38名分の食器を洗い終えたは、明日の朝食の仕込みに入る。
7時半に朝食を出すためには、5時には起きなくてはいけないだろう。
この合宿でに割り振られた仕事は、炊事と共有部分の掃除だ。
テニス部の合宿だけど、きっと外に出ることはないのだろう。
揚げたサツマイモを鍋に入れ、38個のゆで卵の皮を剥き、キャベツと人参は刻んだ。
茹でたホウレン草は既に和え、冷蔵庫の中に納まっている。
が布団に入る頃には、時計の針がてっぺんを越えようとしていた。
眠い…。
合宿も最終日に入り、明日になれば帰宅の途につく。
与えられた自由時間に部員達が楽しむ頃、はおむすびを握りながら、大きな欠伸をしていた。
部員や他のマネージャーは自由時間でも、食事当番にそんなものはない。
体力にはそれなりに自信があったつもりでも、正直、は限界だった。
夜、花火を楽しみながら食べられるように、と指定された夕食は、の腕を疲労させるものでしかなかった。
いっそのこと、バーベーキューにでもしてくれればいいのに…。
大量のおむすびと唐揚げ、ウィンナー、卵焼き。まるで遠足のお弁当のようなメニューは、ただ面倒なだけだ。
どうせこれらを食べながら皆が花火を楽しむ中、は台所で明日の朝食の仕込みをしているのだ。
別に花火がしたいわけではない。ただゆっくり、時間を気にせず布団の中にいたい。
の望みはそれだけだ。
山之内も昼食や夕食の準備を手伝ってくれるが、マネージャーの仕事がある彼女に夜更かしや早起きをさせるわけにはいかない。
この6日間、慣れない大量の炊事をしたの腕は筋肉痛で悲鳴を上げ、短い睡眠時間は疲労を蓄積させるだけだ。
3つ目の炊飯器が空になった途端、それを運ぶのも忘れ、はそのまま台の上に突っ伏した。
「おい、飯は…」
「しっ…」
いつまで経っても運ばれてこない夕食に台所に様子を見に来た跡部は、人差し指を立てて口に当てる人物に言葉を止めた。
「山之内先輩。は・・・?」
小声で聞いてきた跡部に、山之内は自分の影に隠れていたその姿を見せた。
「……」
「食事は誰かに運ばせるわ。跡部君はさんを部屋まで運んでくれる?」
台所の出口まで来て言った山之内に、跡部は頷いた。
「すみません」
夕食の仕度は自分の仕事ではないが、1年をまとめる立場にいる跡部は、同じ1年のマネージャーの失礼を謝った。
「いいの。この1週間、すごく頑張ってくれたもの。休ませてあげましょう?」
優しい表情で返事をした山之内は、そのまま食事を運ぶ人間を呼ぶために、皆が花火を楽しむ外へと出て行った。
そっとベッドの上に降ろしたに、跡部は布団を掛けてやる。
台所で突っ伏して眠るを抱え上げたとき、目を覚ますかと思った。
だが、彼女は全く目を覚ます様子もなく、ここに運ばれてくる間も、まるで死んだように深い眠りの中にいた。
静かに寝息を立てるの顔を、跡部はじっと見ていた。
台所の用意された38人分の夕食。
1人ずつに分けられ、食卓に並べられるとそうは感じないが、38人分がまとまると、それは驚くべき量だった。
この1週間、きちんと時間通りに出てくる食事とその味に、それなりに納得はしていたものの、それは当たり前だと思っていた。
合宿所での食事の用意も、マネージャーの仕事だ、と。
中等部のとき、合宿の食事は施設の従業員が用意していたし、食事を作ることがどれほどの労力なのか、彼には解らない。
家のシェフが作る料理には及ばないが、それでも部員の中で不平を言っている者はいない程度には、美味くできていたと思う。
跡部とて、合宿中、別に食事が気になったことはなかった。裏を返せば、気になるほど文句はなかった、と言うことだ。
山のように詰まれたおむすびを、跡部は思い出す。
食事の用意をするのに、一体、どれくらい働いていたのだろう。
例えば朝、7時半に朝食を開始するために、一体何時に起きていたのか。
38人分の食事を作り、その片付けをし、その間に台所と食堂、共同ルームや玄関の掃除をし…。
一体いつ、休んでいたのか。休む時間は、本当にあったのだろうか。
合宿の1週間、テニスコートで彼女の姿を見たことはなかった。
だから、本当に気にも留めていなかったのだ。
「ん…」
もそっと動き、寝返りを打ったは、跡部に背中を向ける。
体力も力もそれなりにある方だと、跡部は思う。
それでも、軽々と運べてしまった布団の中の彼女は、何故か想像以上に小さく感じた。
媚を売るわけでも謙るわけでもない普段の彼女は、いつも堂々として、大きく見えた気がする。
だが、腕の中にいた彼女も、こうして布団の中で丸まる彼女も、やはり自分とは違う「女」なのだと思わせる。
動いたことで出た肩に、布団を掛けてやり、跡部はそっと、その部屋を後にした。
合宿の打ち上げとばかりに、花火に騒ぐ部員たちを他所に、がいたのは、幸せな眠りの中だった。