8月
8月最初の日、が最初に発した言葉は、悲鳴だった。
「やだ!どうしよう!何で!?」
目覚まし時計の音に目を覚ませば、何故か自分の部屋で布団の中にいた。
大量のおむすびを作った記憶はある。でもそこまでだ。片づけをした記憶も、次の日の朝食の仕込みをした記憶もない。
時計の針が指すのは、4時半。
自分の服装を見れば、昨日のまま。エプロンまで着けたままだ。
「どうしよう…」
まだ暗い廊下を進み台所へ行けば、昨日の残骸は何ひとつなかった。
鍋も炊飯器も食器も、すべて綺麗に片付けられていた。
記憶がないだけで自分でしたのかも、と、が抱いていた淡い記憶は、冷蔵庫を開け、すぐに敗れ去った。
仕込みが何もしていない…。
ただ単に、ボーっとしながらやったのなら、仕込みもしてあっていいはずだ。よく見れば、調理器具の置き場所が微妙に違っている。
その事実が示す現実に頭が痛くなったが、それでもは冷蔵庫から食材を取り出し、準備を始めた。
確実に、誰かに迷惑を掛けたんだ…。
「やだ、もう起きちゃってたの?」
6時前になり、揃って台所に顔を出した1年、2年のマネージャー達には、頭を下げた。
「すいませんでした!」
「気にしなくてもいいわよ。さん1人に任せちゃったのは私達の責任だし」
「朝食はサンドウィッチなんだぁ。何すればいい?」
頭を下げたままのを覗き込んで明るく言った彼女は、その笑顔のまま、の耳元で囁いた。
「自分の仕事くらい、しっかりやってよね」
何を言われても仕方がない。失態を演じたのは自分なのだから。
拳をきつく握り締め、顔を上げたは、何をしたらいいか解らずに立っているマネージャー達に指示を出す。
「こっちのパンは、バターで両面を焼いてください。こっちはこれから具を挟みます」
「了解」
にっこりと笑った山之内を中心に、総勢6名による朝食作りがスタートした。
その日の朝食は、食器ではなく、ラップに包まれたサンドウィッチだった。
いつものようにあっという間に消えていくそれらに、作ったマネージャー達は文句を言う。
「ちょっと〜、もうちょっと味わって食べてよね。大変だったんだから」
「へ〜、今日はお前達が作ったんだ。いいじゃん、これ」
「ホント。食べやすいし、何かオシャレって感じじゃん?」
「結構ウマイし」
食べながらも賛辞をくれる部員達に、マネージャー達はどこか得意そうに頬を染める。
「山之内先輩、は?」
「台所で掃除してる。後で手伝うって言ったんだけど、聞いてくれなくて…」
苦笑いの山之内に、跡部は呆れた。
今までも皆の食事の世話で、彼女が食事をしているところは見たことがなかったが、今日は食堂にも姿を見せないが跡部は気になっていた。
事情を知っていそうな山之内に尋ねれば、台所の掃除をしていると言う。
跡部はどこでも食べられそうなラップ包みの自分の朝食の残りを持ち、食堂を後にした。
「あ゛〜、疲れた」
「なら少し休めばいいだろ?」
独り言のつもりだった嘆きに反応があり、がその返事をした方向を見れば、そこにいたのは、朝食を持った跡部景吾だ。
「食事くらい、ゆっくり座ってできねぇのかよ」
「あと2時間で出発するのに、そんな暇はありません」
台所の掃除は終わった。後は、食堂と共同ルーム、廊下、玄関、自分の部屋だ。他の部分は他の人がやってくれるはずだ。
凝った身体を伸ばしながら、は跡部の手の中にある朝食を見た。
「それ、ごめんなさい。後片付けが無理だから、そんなのになっちゃって」
「ア?別に構わねぇよ。結構評判いいしな」
「そう、良かった」
自分の手の中にある朝食に、跡部はやはり、と思っていた。
食堂では他の1年マネージャーが自分の手柄のように得意げだったが、その味付けから、跡部はそれに疑問を感じていた。
「他の人達も手伝ってくれたから、助かっちゃった」
「掃除も手伝わせればいいじゃねぇか」
「ん〜、昨夜迷惑掛けちゃったからね。これ以上は…」
台の上においてあった自分用の朝食を手に取り、は立ち上がった。
「食べないのか?」
「後でね」
「…適当に手ぇ抜けよ」
「氷帝男子テニス部の評判が落ちてもいいなら、そうするけど?」
「……」
昨日の夕食も食べていないに気を遣い言ったつもりの跡部だったが、返ってきたきた言葉には黙るしかなかった。
氷帝の評判を落とすわけにはいかないのだから。
自分の横を通り過ぎ、台所を出て行くを、跡部は睨むようにじっと見ていた。
2時間後、は氷帝学園へと向かうバスの中にいる。
ユラユラとしたバスの揺れと、適度に聞いた冷房は、彼女を眠りへと誘っていく。
食事くらいゆっくり、か。は自嘲する。
座って食事をしたことなど、この合宿中、何回あっただろう。大抵は、ご飯とおかずを海苔で包み、頬張りながら他のことをしていた気がする。
でも、もう終わった。
アパートの部屋は換気しなくてはいけないだろうけど、ゆっくりとお風呂に入って、思う存分、眠れる。
結局朝食は食べられず、鞄の中に入っている。
バスの中で食べようかとも思ったが、それよりもただ、こうして目を閉じていたい…。
「あ〜、ってば寝ちゃってるC〜。ずるい、俺も〜」
空いていた隣の席に来て、ジローが寝だしたときには、既には夢の中にいた。
氷帝学園に到着するまでの数時間、とジローは仲良く、2人並んで眠っていた。
合宿が終わってからの8月、の周囲は比較的静かだった。
大会に出場する選手達は不在で、留守番組のも、通常業務に戻った。
盆の間の部活休みはバイトに励み、宿題を済ませ、2学期の予習をし…、そしてバイトに励む。そんな日々だった。
夏休みだからといって旅行に行くわけでも、遊びに行くわけでもなかったが、それはそれで充実した夏休みだったような気がする。
何より、いつもより学校に行く時間が少ないのが、嬉しかった。
しかしそれもあと1日。
残暑というにはまだ熱すぎるその日、部屋中のものを選択し、掃除したは、8月のカレンダーをビリッと破り、ゴミ箱に捨てた。
お日様の香りのする布団に身を横たえた頃、外では蝉が夏の名残とばかりに、その羽を鳴らしていた。