11月
「ねぇ、こういうのって生徒会役員がやるもんじゃないの?」
「使えねぇんだよ」
「でも、無関係な私がしていいことじゃないでしょ?」
「お前だってクラス委員だろ。無関係じゃねぇよ」
彼はそう言うが、このまるで応接室のように豪華な生徒会室の中に、以外のクラス委員は見当たらない。
それどころか、ここにいるべき生徒会役員も、会長である跡部景吾、ただ1人だけだ。
「…やっぱりマズイと思うんだけど」
生徒会の機密事項が並べられたパソコンの画面を前に、は戸惑っていた。
そこにあるのは、この生徒会の運営や会計に関すること。一般生徒が関わって良い内容ではない。
「会長の俺様が許可してるんだ。問題はねぇ」
「問題あるでしょ。大体、役員の人たちだって、無関係の私がいるの、いい気しないよ?」
「他の役員は、俺の許可なくここに来ることはねぇよ。部活もあるしな」
生徒会役員全員の公共の場であるはずの生徒会室を、まるで私室のように扱っている彼に、は呆れた。
やっぱり彼は、跡部景吾だ。
「俺も部活だ。あとは頼んだぜ」
本来なら役員が管理すべき鍵をただのクラス委員に預け、この部屋の主はその部屋を去って行った。
もうひとつの重要な、男子テニス部の部長という役目のために。
「はぁ…」
大きな溜息を吐いたは、再び目の前のパソコンに取り掛かる。
忙しい彼の手伝いをするのも、膨大な量の情報を整理するのも、苦にはならないが、それでも何かが引っかかる。
もし、これが公になったとき、責任を取らされるのは、会長である彼自身ではないのだろうか。
彼が出て行った扉に、鍵をかけた。
よし!訪問者は無視。ここには誰もいません!
は、自分に言い聞かせ、再び膨大な情報量を抱えるパソコンの前に、腰を下ろした。
「景吾!遅いよぉ」
テニスコートが目に入った途端、自分の方へ駆けてくるマネージャーの姿が目に入った。
目の前で止まり、頬を膨らませながら上目遣いに睨むその姿に、跡部は冷めた瞳を返す。
「生徒会の仕事があったんだ」
「もう!仕方ないなぁ」
「問題ねぇか?」
「うん。問題なし!景吾の予定通り、練習は進んでるよっ」
「ならそのまま続けろ。着替えてくる」
自分の後ろを纏わり付く彼女に視線を合わせることもなく、跡部は更衣室へと姿を消していく。
先月の5日、登校した跡部を待っていたのは、涙目で自分を見る亜樹の姿だった。
生徒が皆通る校門で、人目を気にすることもなく「昨日渡したかったのにぃ」と涙する亜樹に、
跡部はただ一言、「悪かった」とだけ言い、プレゼントを受け取った。
この亜樹の、まるで演出でもされたかのような仕草に、煩わしさを感じるようになったのは、いつからだったろう。
まだ彼が、様々な女の身体を渡り歩いていたとき、彼女を可愛らしいと思ったこともある。
他の女達のように、あからさまに媚びたり、妙な駆け引きを仕掛けてくることもない。
素直に、自分の感情をそのまま表現する仲間である亜樹に、好感を持っていたのは確かだ。
だが、それはいつしか、胡散臭いものへと変わっていった。
彼の一番近くにいる彼女のように、頑固な意地を張ることもなければ、堪え切れない涙を流すこともない。
亜樹の張る意地は、あくまで可愛らしさしか見えず、亜樹の流す涙は、誰が見ても可愛いと思うだろう。
こちらがムカつくような意地の張り方も、顔がグシャグシャになるような泣き方も、亜樹はしない。
亜樹の後ろには、何の感情も見え隠れしないのだ。
跡部の良く知る彼女は、違う。
虚勢を張ったその姿の奥にある何かを、自分の手で引っ張り出したくなる。
メチャクチャに壊したくなるときもあれば、真綿で包むように優しく護ってやりたくなるときもある。
亜樹のクルクル変わる表情に、作り事を見るようになったのは、を知ってからだ。
ガシャン
脱ぎ終えた制服をロッカーに押し込み、跡部は勢いよく、その扉を閉めた。
「はっきりさせたりぃや。亜樹のためにも、そこにおるお姫さんのためにも」
忍足にそう言われたあのときから、状況は何も変わっていない。
どうにかすべきなのは、跡部自身もよく解っている。亜樹のためにも、何よりも大切なのためにも。
だが、自身がこの関係を公にすることを拒んでいる以上、打つ手が少ないのも確かだ。
2人の関係が公になれば、それはすぐさま、学園中の噂になる。
が好奇の視線に晒されるのも、女達の醜い嫉妬の対象にされるのも気に入らない。
それでも、跡部にはを守り抜く自信があった。
だが、おそらくは、跡部の周囲にいる女達を気にしているのではないだろう。
その本当の理由が判らない以上、跡部にはどうすることもできなかった。
スポーツバックの中から、真新しいリストバンドを取り出す。
昨日まで使っていたものが古くなったわけでも、役に立たなくなったわけでもない。
だが、自分の趣味とは少し異なるそのリストバンドを、跡部は右手に嵌めた。
「お、跡部。リストバンド変えたんか?」
目聡くそれに気が付いたのは、忍足だった。
「まぁな」
「でも、いつもんとちゃうな。あ、プレゼントやな?」
忍足の質問には答えず、跡部は練習に参加し始める。
ピッ、ピッという笛の音を合図に、ダッシュをする。
そんな中でも彼らの関心ごとは、跡部の右手に嵌められた、真新しいリストバンドだ。
「ねぇねぇ跡部。それ、誰から貰ったの?」
「うるせぇ。真面目に走れ」
緩やかな走りの中に笛の音が響き、跡部はスピードを上げる。
「亜樹に貰ったの?」
笛の音と共にスピードを落とすと、再びジローが跡部に纏わり付く。
何も答えない跡部の代わりに返事をしたのは、一番初めにそれに気がついた忍足だった。
「ちゃうって、ジロー。亜樹のプレゼントは、刺繍入りのタオルや」
未だロッカーの中で眠ったままになっているタオルは、一度として跡部に使われた様子はない。
「え〜、じゃぁ誰?ファンの子?」
ファンの子達からのプレゼントは、未だに部室の中でそのままになっていることを知っているジローは、首を傾げた。
ピッと笛が鳴り、彼らはまた、スピードを上げる。
再び笛が鳴ったときも、彼らは少し上がった息を整えるだけで、おしゃべりに興じた。
「え〜、誰?」
しつこく跡部に食い下がるジローの肩に腕を回し、忍足は秘密を打ち明けるように、教えてやった。
「ジロー。それはな、お姫さんや」
それを片耳で聞いていた跡部には、忍足のおしゃべりを咎める様子も、怒る様子もない。
「お姫さま?」
忍足のヒントを聞いても未だ訳の解らないジローは、その頭に疑問符を浮かべている。
「鈍いな〜、ジロー。そういうことやろ?跡部」
何の反応も示さない跡部を捕まえ、忍足は同意を求める。
跡部は得意げに微笑み、右手を見せ付けるように掲げ、その話題のリストバンドにキスをした。
「気障やな〜、自分。こっちが恥ずかしゅうなるわ」
揶揄するように言った忍足と違い、ジローはポカンとしたままだ。
そんなジローに跡部は、彼特有の自信満々な笑みを浮かべた。
「つまり、そういうことだ。理解したか?お子様ジローちゃんはよ」
忍足の揶揄に、跡部の行動に、遅ればせながらその意味を理解したジローは、思わずその足を止めた。
「え〜!跡部、彼女いたの〜!?」
ジローの叫び声は、テニス部だけではなく、それを応援するファンの間まで、大きく、響いた。
コンコンと、静かにノックする音に、はその身をびくつかせた。
ここには誰もいないのよ。
僅かな物音も立てないよう、は息までをも押し殺した。
コンコン
再び叩かれる、生徒会室の扉。
「俺だ。開けろ」
聞き慣れたその声を確認し、は漸く大きく息を吐いた。
「終わったか?」
「大体ね。あとは役員さんたちに頑張ってもらって」
跡部が入った途端、鍵を締めるを通り過ぎ、跡部はパソコンの前に座った。
彼が部活で一騒ぎを起こしていた間に、がした仕事の成果をざっと見て、そのまま電源を落とした。
「合格?」
「まぁな」
貴重な放課後の時間、何の報酬も責任もない仕事に精を出していたというのに、彼の評価は「まぁな」だ。
は思わず、パソコンの前に座ったままの跡部の頭を叩いた。
「痛ッ、何しやがる」
「ご褒美くらいくれたっていいと思うけど」
不機嫌な顔のに、跡部の表情は思わず綻んだ。
こうして怒ってはいても、その奥で彼女が本当に欲するのは、ご褒美でも感謝の言葉でないことも解っている。
彼女が欲しているのは、この俺だ。
椅子から立ち上がり、机に腰掛けた跡部は、と視線を合わせた。
その細い腰に両手を回し、自分に引き寄せれば、不機嫌に結ばれたままの唇は、もうすぐ目の前だ。
「ほら、褒美をやるよ」
固く結ばれたままの唇に舌を這わせれば、それが柔らかく、熱くなっていくのが判る。
解れた唇を貪るように覆えば、そこから漏れる吐息さえも、彼の口内へと飲み込まれていく。
「満足したか?」
頬を赤く染め、息を乱したを、跡部は楽しそうに眺める。
その口から囁かれる「馬鹿…」という罵りさえ、この甘い空気の中では、愛の言葉にしか聞こえない。
ここは、氷帝学園高等部の生徒会室。
本来なら、彼と彼女が一緒にいて良い場所ではない。
それでも、鍵の掛けられたその扉は侵入者を許さず、閉められたカーテンは誰の視線も届かない。
同じ紋章を掲げた制服姿の男女が2人。
誰にも邪魔されないその密室で、甘い甘い、砂糖菓子のような時間を共にしていた。
誰もいなくなったその部屋で1人、亜樹はそこに貼られたネームプレートを睨み付けていた。
「跡部」
この男子テニス部の主であり、亜樹がもう何年も思い続けてきた男の名前。
それが純粋な気持ちだったことがあったのか、それは亜樹にももう、思い出せない。
だが、今、亜樹の中に渦巻く感情は、嫉妬、怒り、疑念、憎悪、疑念、激昂、憤懣。
この氷帝学園の頂点に立ち、すべてを魅了し、凌駕する男。
それは何よりも、自分に相応しい男。
彼の隣に立つ女は、紛れもなく自分。
それ以外の女は、ただ指を咥えて、その様を遠くから眺めていればいい。
鍵の掛かったロッカーも、スペアキーを差し込めば、簡単に開く。
一種の賭けだった。
そこに彼が、それを置いていったという保証はなく、彼の持っていたスポーツバックの中にある可能性もある。
だが、すぐ目の前に見つけたそれに、亜樹は自分の賭けが勝利したことを知った。
「跡部、彼女いたの〜!?」
ジローの叫び声は、笛を鳴らしていた亜樹の耳にも届いた。
否定も肯定もしなかったが、得意げに、嬉しそうに微笑む跡部の様子は、ジローの指摘が間違っていないことを物語っていた。
「何がお姫さまよ。彼のお姫さまは、この私」
彼の右腕にあった、彼のキスを受けたそのリストバンドを、亜樹は踏みつける。
「どこの誰だか知らないけど、私のものに手を出すなんて、許さない」
顔も知らない女への憎しみをリストバンドにぶつけ、亜樹はそのまま、それを見つけたときと同じ場所に戻し、鍵を掛けた。
ここでこれを奪い取ることは簡単だ。
だが、この部室の鍵を持つのも、このロッカーを開けられるのも、限られた人物にしかできない。
すぐバレるような、そんな愚かな行為をするほど、亜樹は馬鹿ではなかった。