1月
2年生最後の学期、跡部が最初にしたことは、ロッカーに新たな鍵を付けることだった。
部室のロッカーに教室のロッカー。2つの新たな鍵を取り付けた。
「っ!」
「わ、莉子…」
久々に会った友人に抱きつかれ、もまたその心優しい友人を抱きしめ返した。
「初詣に誘おうと思ったのに、いないんだもん」
「ごめんね。また今度、誘って?」
クリスマスは、莉子もこの夏できた恋人と過ごした。
だが、新しい年を迎えるその日、家族がいないを思い誘った莉子の心遣いは、杞憂に終わった。
「で、はこの冬休み、何してたのかな?」
「何って…バイトだけど?」
嘘ではない。彼が部活に励む時間、は確かにバイトに勤しんでいたのだから。
だがニヤニヤと笑う莉子は、の冬休みがそれだけではないことを知っていた。
何故か彼女はその存在を認めないが、莉子はこの優しい友人に特別な人がいることを確信していた。
「男友達」の誕生日プレゼントに悩んだり、クリスマスや正月にいなかったり。
「もう!楽しい冬休みだったんでしょ?」
「まぁ、ね」
その内容を詳しく語ることはできないが、楽しい冬休みだったことに変わりはない。
クリスマスに突然差した影を払拭するかのように、彼はずっと優しかった。
成就した恋にはしゃぐ莉子もまた、楽しい冬休みを過ごしたのだろう。
女友達2人は、少し照れた顔を見合わせ、微笑み合った。
「ね、今度の家、泊まりに行ってもいい?」
「もちろん。ちっちゃいアパートだけど、それでも良ければ」
友人の提案に、は快く頷いた。
部屋の大きさなど、豪華さなど、何の問題にもならない。
必要なのは、内緒話をできる時間と、それを邪魔されない場所だけだ。
「何や、跡部。もうリストバンド、駄目にしたんか?」
「……」
険しい顔で無言を突き通す跡部に、他の部員たちはそれ以上、そのことに触れようとはしなかった。
リストバンドが変わった跡部の右手に、別れたのだと、安易な想像をする者たちも少なくなかった。
だが、亜樹は気が付いていた。
新たに取り付けられた、スペアキーでは開けることのできない、その鍵に。
「別れたのだ」という希望を捨てたわけではない。
リストバンドが摩り替わったことで、跡部と名も知らない女の間に亀裂が生じたのかもしれない。
だが、今、確実に判ることは、彼が、気が付いたということだ。
摩り替わったリストバンドに。
自分の仕業だと、バレたわけではないだろう。
亜樹と同じように、この部室に出入りし、彼のロッカーを開けることのできる人間は、何人もいる。
だが、彼が疑う容疑者の中に、自分が含まれていることも間違いない。
彼の態度は変わらない。
いつものように、仲間として、同じ部活の部員として、亜樹に接する。
だが、そこに特別なものは何もない。
そうなったのは、リストバンドのことが発覚したせいではなく、もっと、ずっと前からのことだ。
中等部の頃は、甘える亜樹を、跡部も甘やかしてくれていた気がする。
高等部に入った頃はどうだっただろうか?去年の夏は…?
思い返してみても、いつから跡部との関係が妙な方向へと進んだのか、亜樹には判らない。
ただ確実に彼女に判るのは、跡部の中で亜樹が「特別」ではなくなってきている、ということだけだ。
まだ少しは「特別」なのかもしれない。フェンスの外で跡部を眺めることしかできない大勢の女達と比べれば。
だが、彼に抱かれていた、あるいは今も抱かれているだろう女よりは、「特別」ではない。
それが亜樹には、悔しくてたまらなかった。
焦ったことなど、今までなかった。
どんなに他の女を抱いていても、それでも亜樹は跡部の一番近くにいたのだから。
だが、その他大勢の女に興味を示さなくなった今、一番近くにいるのは、亜樹ではない。
彼と同じ時間を過ごすようになって、もうすぐ5年が過ぎようとしている。
それなのに今初めて、亜樹はその関係に焦りを感じていた。
「で?」
「何?」
「いいから白状しちゃいなさい。不倫してるわけじゃないでしょ?」
「まさか!」
パジャマに身を包み、女同士のおしゃべりに興じる友人の言葉に、は大きく首を振った。
「じゃあ言って。私、おしゃべりなんてしないよ?」
「それは解ってるけど…」
「…は私の恋を応援してくれたから、私だっての恋を応援したいんだよ?」
莉子の想いは、に充分伝わっている。
だが、言えないのだ。
彼女も良く知る人物だからこそ、この想いは、関係は、話せない。
「〜!」
ピンポン
「ほら、お客さん」
迫り来る友人の追究を逃れようと、は突然の来客を知らせるチャイムに飛び付いた。
既にパジャマに着替え、布団の中へ入ろうという時間。
莉子から逃げることだけを考えてきたは、こんな時間の来訪者が誰かなど、考えもしなかった。
「……」
「ったく、危ねぇな。相手確かめてから、開けろよ」
そこにいた来訪者に、は息をするのも忘れた。
時間が止まった気がした。
「〜、お客さん、誰?」
止まった時間を動かしたのは、来客を確認するために顔を出した莉子と、
のアパートに初めている自分以外の客に驚く跡部の、対面だった。
「は?何?何でここに跡部君がいるの?」
後ろ手で素早くドアを閉め、跡部は頭を抱えた。
「…だから連絡してから来て、っていつも言ってるのに」
「んなこと言ったって、こんな時間に誰かいるとは思わねぇだろ。普通」
頭が痛いのは、も同じだ。
この状況では、何の誤魔化しようもない気がする。
「へ…?何?…えっと、つまり…、そういうこと、なの?」
同じ表情で顔を合わせる跡部とを交互に指差し、莉子はその状況から誰もが推理する、結末に辿り着いた。
「嘘…。の彼氏は跡部君で…、噂のお姫さまは、…?」
どんなに言い訳をしたところで、誰も信じないだろう。
クラスメートでもない、嘗て同じ部活に所属していただけの2人が、こんな夜更けの逢瀬をする理由を。
「お願い、莉子。誰にも言わないで」
「う…ん。それは、もちろんだけど…」
自分の推理が当たっていると、そう示されても、莉子は未だに信じられない。
氷帝の生徒会長、男子テニス部の部長、跡部景吾と、自分の友人、の関係を。
こうして目の前に2人が並んでいても、それはまるで現実味を帯びない。
「ジローにもだぞ。あいつの口は空気より軽いんだから」
「失礼ね。いくらジローちゃんでも、そこまでひどくないもん」
自分の恋人を馬鹿にした跡部に反論しつつも、莉子はこのことをジローに話したら、瞬く間に噂が広まるのは時間の問題だと思った。
天真爛漫で無邪気なのが彼のいいところだが、理解できない秘密を守れるほど、大人ではない。
「何で隠してるの?別に問題ないでしょ?2人が付き合ってたって」
「まぁ、いろいろあって…」
「問題は大有りなんだよ。お前はが馬鹿な女共の餌食になっても構わねぇのかよ」
「景吾!」
言葉を濁すと違い、はっきりと物言う跡部の言い分に、莉子も、もしバレたときのことを想像した。
毎日のようにテニスコートに詰め掛ける、山のような人だかり。
生徒会長の跡部が壇上に立つ度に挙がる、歓声と悲鳴。
それらすべての嫉妬がに向けられるのかと思うと、莉子はそれだけで震えが来るような気がした。
「私、絶対誰にも言わない」
自分に言い聞かせるように宣言した莉子に、と跡部は顔を見合す。
「うん、絶対誰にも言わない」
この秘密の番人は自分だと、莉子は大きな使命を背負ったように、頷いていた。
その夜は、散々だった。少なくとも、跡部にとっては。
迎えの車が来るまでの30分間、好奇心の塊となった莉子に、散々詰め寄られた。
出会いから始まり、きっかけ、リストバンドのことも、正月に不在の理由も。
挙句の果てには、中等部時代の跡部の噂を知っている莉子に、本当に浮気はしていないのかと、問い詰められる始末だ。
いくら跡部が「してねぇ!」と言ったところで、帰る跡部に莉子が言ったのは、
「もしちょっとでも浮気したら、私が許さないんだからね!」だった。
跡部がアパートを出た後も、おそらくは、更なる追究を受けていたのだろう。
話されて困ることはないが、何やら気恥ずかしい思いは消えそうにもない。
女同士の、しかも恋の話など、男は聞いていてただ、照れくさくなるようなことばかりだ。
この突然のアクシデントに、不意を突かれたものの、跡部はどこかホッとしていた。
泊まりに来るほど仲の良い友人が、にいたという事実に、
その友人と秘密を分かち合えることで減っただろう、の心の荷物に。