8月
冷夏だと世間が騒ぐ中でも、やはり陽は熱く、暑い。
夏休みだというのに、学校の図書館で教科書とノートを広げる生徒がここにいる。
外の熱気とは裏腹に、冷房の効いた図書館内は、心地よい冷気で満たされている。
夏休み本番のこの日、ここ、氷帝学園高等部の校内には、生徒が殆どいない。
彼らは、全国大会へと駒を進めようとしている誇るべき男子テニス部の応援のため、その試合会場まで足を運んでいる。
そんな大勢の生徒達の意向に逆らい、こうして図書館で勉強に励むの行動は、元・テニス部のマネージャーとして決して褒められたものではないだろう。
クラスメートからも、元の仲間からも、そしてもちろん跡部自身からも応援に来るよう誘われた。
だがは、それをバイトや勉強を理由に、頑なに断っていた。
夏の日差しが暑い炎天下でも、頑張る彼らを応援するのはきっと、何の苦にもならなかっただろうとは思う。
それでも、先月の跡部低でのニアミス以来、は決めていた。
もう2度と、跡部との関係が発覚するようなミスは犯さない、と。
手に豆を作り、帰宅後も自主練習を重ね、テニスに打ち込んでいる跡部を、は他の誰よりも近くで見てきた。
だからこそ、決勝という晴れ舞台で頑張っている彼を応援したいとも思う。
だが、それと同時に、感極まり、我を見失う可能性があるのも確かだった。
男子テニス部期待のエースと、その男子テニス部の元・マネージャー。
熱気に沸き返る会場で、自分がどれだけその仮面を被っていられるのか、には自信がなかった。
勝利に喜ぶ跡部に駆け寄り、1番最初に「おめでとう」を言う自分。
ミスに傷付く跡部の1番近くで、そっと抱きしめ、彼の代わりに涙を流す自分。
そんな自分の姿を何度夢に見たことだろうか。
そしてその後必ず、自分を睨み付ける亜樹が、夢の中には登場するのだ。
ノートに並べられた数式をひとつ解いては、答えを確かめ、また次の数式へと取り掛かる。
心だけは、あの頂点へ繋がるコートで、彼の側にいる。
いくら自分にそう言い聞かせても、それは詭弁だと、にはよく解っている。
跡部の放ったボールが相手の脇をすり抜け、審判が高らかに彼の勝利を宣言する場面を想像する。
そうしてまたひとつ、次の数式を解くことしか、にはできなかった。
「ゲームセット!ウォンバイ……」
地区大会決勝戦、大きな歓声とコートでの夏は終わりを告げる。
「よく頑張った」「最高のプレーだった」と、人々はその功績を称える。
確かに皆頑張った。最高のプレーをしたのかもしれない。
それでも誰かが言うように「満足」もなければ、「達成感」もない。
「後悔」なんて有り余るほど残っている。あの時ああすれば、もっと練習をしておけば、もっと上手ければ。
自分にはもう1年ある、という、どこか卑怯な感情が許せなかった。
これで終わりだと、「来年の君たちに期待している」という先輩に、何と言葉をかけていいのか分からなかった。
「お疲れ様でした」と、頭を下げた自分が、嘘のように白々しかった。
学園へと戻るバスの中で皆と一緒にはしゃぐ気にはどうしてもなれず、彼は一人、目を閉じていた。
高すぎる太陽がビルの谷間に消えようとする頃、は家へと戻る道を歩いていた。
もう決勝戦の結果は出ていることだろう。
テニス部のマネージャーである先輩に、応援に行っているクラスメートに、何より跡部自身に電話をすれば、すぐにでもその結果は判る。
だが、はそれをしなかった。
結果を知りたい気持ちはあった。
それでも、炎天下で頑張る彼らを、声を出して応援できない自分には、その資格がないような気がしていた。
勝利に沸く彼らと喜ぶことも、敗戦に悔やむ彼らと涙することも、何もかも一緒にはできない。
アパートまで辿り着き、その扉に手を掛けたとき、そこに鍵は掛かっていなかった。
鍵をかけ忘れた可能性よりも、空き巣の可能性よりも、中に誰かがいる可能性の方が高かった。
朝、この扉を閉めたとき、は確かに鍵をかけたのだから。
薄暗くなった部屋の中は、明かりもなく、人がいるとは思えないほど静かだった。
だがそれでも、ワンルームのその部屋では、扉を開けた瞬間、そこに彼がいることに、は気が付いていた。
「…お疲れさま」
「あぁ…」
学校から直接、この場所へ来たのだろう。
氷帝のユニフォームを着たままの跡部の横に、大きなスポーツバックとラケットバックが置かれている。
は持っていた荷物を置き、そのまま跡部の横に座った。
試合の結果は、聞かなくても、その表情を見れば解る。
涙を見せたり、声を荒げたりするような彼ではないが、それでもその表情は決して明るいものではない。
かけるべき言葉が見つからない。
「残念だった」も、「来年がある」も、「頑張った」も、頭の中に浮かんだ言葉のすべてが口から出てくることはなかった。
何を言えばいいのか、解らない。
「…負けちまった」
跡部の一言が、はものすごく重く感じた。
はただ一言、「うん…」とだけしか言えず、そのまま跡部に寄りかかった。
彼を包み込めるような広い胸も、抱きしめられるような大きな腕も持っていない。
だからただ、ここにいることを伝えたかった。
クーラーも効いていない真夏の部屋では、触れているだけでそこから熱が発生し、汗が生じる。
それでも、跡部もも、その触れ合いを解こうとはしなかった。
決勝戦で頑張った部員たちを労う部活休みも、部活動が再開されてからの休日も、跡部はテニスコートにいた。
何かを振り払うように、ボールを追うことだけが自分の使命であるかのように、炎天下でラケットを握っていた。
遠出をすることも、デートを楽しむこともない。
だがは、それでも良かった。
「テニスは高校で終わりだ」と、跡部は言っていた。
それならば、こうして少しでも彼の力になりたい、とは思う。
彼の後悔がないように。
自分の後悔がないように。
マネージャーを辞めて以来、跡部がこうしてテニスに真剣に打ち込む姿を見る機会は減った。
でも今、ここにいるのは2人だけだ。
気にしなくてはいけない亜樹もいなければ、他の部員もいない。
フェンスの外から黄色い歓声を上げる女の子たちもいない。
強い日差しの下、響くのはボールの弾む音と、彼の息遣い。
自信たっぷりで余裕な彼も、人を馬鹿にしたような俺様な彼も、かっこいい。
だが、彼が1番素敵なのは、こうして真剣に物事に取り組んでいるときだ。
いつも向けてくれる優しい瞳は、怖いほどに鋭い。
あの大きくて温かい手が、痛いほどにグリップを握っている。
私を包み込んでくれる力強い腕も胸も、今は、小さなボールをコントロールするためだけに躍動している。
いつも涼しげな彼の顔は汗に濡れ、真剣に強くなることだけを追っている。
不謹慎なのかもしれない。
全国大会へ進めなかったことは、確かに悔しいし、残念だ。
だが、その事実が彼をここまで熱くさせている。
高校を卒業したら、跡部はこうしてテニスに真剣になることはなくなるのだろう。
だからこそ、この時間がは愛しかった。
高校時代、彼は一心不乱に追い求めていた。
その事実を目の前で見ることのできるこの時間は、きっと大人になっても鮮やかに蘇るのだろう。
が差し出したボールを跡部のラケットが打ち、炎天下のコートに強く跳ね返る。
ただそれだけのことが、の脳裏に鮮やかに、強く、刻み込まれていた。