9月
「わ!焼けたね、。どこで遊んできたの?」
始業式、久しぶりに会った友達の第一声が、これだった。
「痛い!もうちょっと優しくやってよ!」
「充分優しくやってるじゃねぇか」
「だって痛いんだもん!」
跡部に付き合って、夏の暑い日々を太陽の下で過ごしたは、日焼けの恐怖に見舞われていた。
Tシャツの跡がくっきりと残り、赤くなった腕と首。
「日焼け止めは塗り直しが大事」という教訓は学んだものの、未だヒリヒリする腕は、後の祭りだ。
跡部家ご用達の高級ローションを腕に塗りこんでいるものの、それさえも痛みを助長する。
8月31日まで行われた跡部景吾の自主練は、に紫外線という置き土産を残していた。
「…何で景吾は焼けてないの?不公平だよ」
「仕方ねぇだろ。そういう体質なんだよ」
薄っすらと日に焼けてはいるものの、その跡はすぐにも消えそうで、赤くもなっていない。
日焼け止めなんか塗ってなかったのに、不公平だ。
自分の腕にローションを塗る跡部の手。黒と白。
の表情は、誰が見ても判るほどに不満げだ。
「もう景吾の練習なんか、絶対付き合わない」
「誰も付き合えなんて言ってねぇだろ」
「そりゃそうだけど…」
確かに、跡部は自分の練習に付き合うようにに言ったことは、一度としてない。
ただ、が自主的にそうしただけだ。そうしたかっただけのこと。
八つ当たり的な文句を言っている自分が悪いことは、解っている。
それでも、跡部に否定されてしまえば、それはそれで、悔しいし、悲しいし、切ない。
自分がいてもいなくても同じだと言われているような気になってしまう。
確かに、がいなくても、跡部は同じように練習をし、同じように強くなっただろう。
それならば、自分が一緒にいた意味は何だったのか。
学校ではできない、跡部のテニスの手伝いをした気になって、喜んでいたのは、ただの自己満足?
「……ごめんなさい」
下を向いて、本気で謝っている様子のに、跡部は大きく溜息をついた。
「謝ることじゃねぇだろ」
「景吾の役に立った気になって、独りで喜んでた。バカみたい」
「ま、日焼け止め塗らなかったのは、バカだな」
「うん…」
からかうつもりで言った言葉に、が本気で落ち込みだしたのを見て、跡部はを抱き寄せた。
痛む腕や首に触れないように、そっと。
「独りじゃねぇだろ」
本当にそうだったら嬉しい、と、は跡部の胸に顔を埋めた。
自分の勝手な練習をサポートするに嬉しさを感じていたのは、跡部も同じだった。
1年の頃は、例え近くにいることは少なくても、同じ部活内にいた。
だががテニス部を辞め、それから彼女が跡部のテニスに関わる機会は、極端に減った。
たまの休日に、家のテニスコートに立つ跡部をが見ている。それが現状だった。
だが、ここ2週間。は朝から夕が暗くなるまで、跡部と同じテニスコートにいた。
夏休みの休暇をテニスに明け暮れたのは、ただの自分のわがままだ。
試合に負けた悔しさを払拭するように、ボールを追い続けた。
休みだというのに自分のためだけに時間を使った。
それにひとことも文句を言わず、自分のためだけの時間を一緒に過ごしてくれたのは、だ。
それに感謝こそすれ、の行動を非難するつもりは、跡部にもない。
「ま、次からは真面目に日焼け止めを塗るんだな」
「そうする…」
「次」なんて本当にあるのだろうか?
その危うさを、は痛感していた。
こうして彼の側で、彼を応援し、彼をサポートする。
彼に愛され、からかわれ、誰にも邪魔されない甘い時間を過ごす。
そんな日々が、あとどれだけ続くのだろう。
「本当に進学は希望しないんですか?」
「はい。それがこの子のこの希望でもありますので」
「本当にそれでいいのか?」
疑わしい目で見つめる担任に、はただ頷くしかない。
例えそれが本心ではなくても、そうするしか、彼女には道がないのだから。
「今日はありがとうございました」
頭を下げるに彼は何も言わない。
その姿を見ることもなく、さっさとその場を後にしていく。
「……」
徐々に小さくなっていくその男の背中を、は複雑な表情で見つめるだけだ。
彼に対する特別な感情はない。
彼はただ、母親の隣を通り過ぎていった男の一人に過ぎない。
母も若かったのかもしれない。それとも、本当に彼を愛していたのだろうか。
彼との思い出はない。
が初めて彼に会ったのは、母が亡くなった後、弁護士に連れられてだ。
DNAでは、確かに彼は父親で、この世に存在するただ独りの肉親だ。
それでもにとって、彼はただの保護者でしかない。
母が残した決して多くない財産を管理し、がそれを受け取る日までの、ただの知人だ。
本当に忌々しい。
初めて存在を知った父親に微かな希望を抱いていた。
それでも、彼にとって娘の存在は、ただの邪魔者でしかなかったのだ。
彼にとって大切なのは、新しい妻と、血の繋がらない娘。
いっそのこと、彼が父親である責任をすべて放棄してくれたら、こんなに苦しむこともなかったかもしれない。
「高校生、16歳、か…」
窓ガラスに映る自分の制服姿に、は溜息をついた。
この日本では、まるで特別なもののように思える女子高校生。
でも、法律や社会の前では、ただの子供に過ぎない。
世界でたった独り、自分を愛し、育ててくれた人間が遺してくれたものを受け取ることもできない。
好きな学校に通うこともできなければ、好きな場所に住むこともできない。
無力で、とてもちっぽけな存在。
大学に進学してみたいと思ったことがないわけではない。
奨学金を得るための勉強だが、自分の好きなことを追求するためだけにしてみたいとも思う。
それでも、母の残した財産だけでは、大学生活を勉強だけに費やすことはできないだろう。
父親の援助は望めない。
奨学金という手もあるが、それをしてまで望むものが、大学にあるのかも解らない。
それならば、進学という方法は、必ずしも最善ではない。
高校を卒業して、何をしたいのか、解らない。
それでも、少なくとも彼の管理下を逃れる21歳まで、まだ5年もある。
生きて、生き延びて、母が遺してくれたものを受け取る日まで、あと5年。
大きく窓を開ければ、少しだけ涼しくなった風が舞い込んでくる。
3年生が引退し、新しく部長になった彼は、今もきっと、テニスコートでボールを追いかけているのだろう。
彼はきっと、間違いなく大学へと進学する。
父親の跡を受継ぐために、その身をテニスとは別の目的へと走らせるのだろう。
そしていつか、彼の家柄に相応しい女性と一緒になり、未来を築いていく。
「あと、1年半…」
彼と一緒にいられる時間を数え、は泣きたい気分になる。
高校卒業。それが彼と私の時間の、リミットだ。
「!」
自分の名を呼ぶ声に後ろを振り向けば、先ほどまで対面していた担任の姿がある。
「先生…」
「本当にいいのか?」
の複雑な家庭事情を知っている担任は、不安げに、心配そうに自分の生徒を見つめる。
「はい。目的があるわけじゃありませんから」
「…奨学金という手もあるぞ?」
「大丈夫です。もし大学へ行きたくなったら、その時に考えます」
成績優秀な生徒が、家庭の事情のせいで進学できない。
それなのに何もすることができない自分に、担任は歯痒さを感じていた。
「先生、心配してくださってありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
にっこりと微笑む彼女の頭を、担任はポンと撫でた。
「何かあれば、いつでも相談に乗るからな?」
「はい」
高校生、16歳、未成年。
まだ、親に甘え、護られてもいい年だ。
それなのに、こうして自分の足で立つことを余儀なくされる子供もいる。
それがの、紛れもない、現実だ。