10月
「お誕生日、おめでとう」
差出人の名前も書かれていないその手紙は、こんな言葉で始まっていた。
お誕生日、おめでとう。
本当なら、一緒にこの日を迎えたかったけど、今の私にはできないから。
せめて、こんな形だけど、おめでとうを言わせてください。
何も言わずに景吾の前からいなくなった私を、きっと恨んでいるでしょう。
「ふざけんな」って怒る景吾の顔が、脳裏に浮かびます。
景吾に何も言えなかったのは私の弱さだけど、東京で過ごした2年半、私は幸せでした。
たった1人の家族だった母を亡くし、独りになった私だけど、友人ができ、仲間ができ、大好きな人ができた。
それは、こうやって皆と離れた今でも、大切な宝物のように幸せな思い出です。
こんな結果になってしまったけど、私はそれを恨んだりしたくありません。
景吾のことだから、私がテニス部に入った理由も、辞めた理由も、景吾とのことを隠し続けた理由も、すべて気が付いているのでしょう。
でも、それは誰かのせいではなく、すべて私が弱かったから。
闘う強さも、自分を信じる強さも、何もなかった自分の弱さのせいだから。
誰かのせいにしてしまうのは簡単だけど、景吾と一緒にいた時間を大切にしたいから、
後悔とか、憎しみとか、そんなもので濁らせてしまうのは、本当に嫌だから。
だから、こんな終わり方になったとしても、この2年半を否定しないために、私は前を向き続けたい。
景吾。
あなたの名前を口にするたび、涙が溢れそうになるのを止められそうにもありません。
本当は泣き虫じゃないはずなのにね。
何も言わなかったこと、本当にごめんなさい。
でも、景吾とは、ケンカや涙じゃなくて、幸せな時間のまま、お別れをしたかったの。
8月31日の私を覚えていますか?
幸せそうだったでしょ?
本当に幸せだった。景吾がいて、誰にも隠す必要がなくて、そんなことが、本当に幸せだったの。
そんな時間の私を覚えていて欲しかった。お別れを言えば、絶対に泣いてしまうから。
ねぇ、景吾。
私を思い出すとき、あの幸せそうな私を思い出してくれたら、嬉しい。
私が思い出すのは、いつも笑っている景吾だから。
弱くて、逃げることしかできなかった私を、弱虫だと思うでしょ?
でも、そんな私を変えてくれたのは景吾だから。
あのテニスコートで、大歓声の中、真っ直ぐに私に向かってきてくれた景吾に、もう逃げたくないと思ったの。
こんな素敵な人に想われているのだと、そう誇らしく思うことを、隠していたくないって。
景吾。18歳になったんだよね。
私はまだ17だけど、私たちって子供なのかな。それとも大人なのかな。
現実を何も知らず、無邪気に笑っていられるほど、子供ではいられないけど
現実にひとりで立ち向かえるほど、すべてを抱えられる大人でもない。
大人の加護が必要で、それでもそれに甘えていられるほど、幼くはなくて。
不思議な年齢。
現実など何も知らない子供の頃に出会っていたら、私たちは今も一緒にいられたのかな。
現実に立ち向かえるほど大人になってから出会ったら、永遠を誓えたのかな。
その答えはよく解らないけど、それでも15歳にあなたに会って、恋をしたこの現実をやり直したいとは思わない。
子供じゃなくて、大人じゃなくて、こんな中途半端なときにしたこの恋は、きっと一生私の中で輝き続けるから。
「さよなら」は言いたくなかった。
「またね」と約束もできなかった。
だから、何も言わずに逃げてしまった私は、こんな形でしか、あなたに伝えることができません。
私は今、私のことを「子供」と言ってくれる人と一緒にいます。
亡くなった母のように、私を幼い子供のように甘やかし、愛してくれる大人です。
血の繋がった人ではないけど、例え血は繋がっていなくても愛してくれる人がいることを、景吾が教えてくれたから。
血とか、生まれとか、そんな繋がりはなくても、誰かを想えることを景吾が教えてくれたから。
私はこの人にもう少しだけ、甘えてみたいと思います。
小さな子供のように、大人として自分の脚で立てるその日まで、愛されてみたいと思います。
景吾。
私は今、幸せです。
目を瞑れば、景吾と過ごした日々が私の体中に溢れてきます。
それはとても温かくて、柔らかくて、大好きなチョコレートよりも甘い思い出です。
たったひとことで胸がドキドキしたり、泣きたいほど誰かを想ったり、手が触れるだけで温かくなったり。
あんなに人を好きになったこと、あんなに誰かを愛せたこと、あんなに誰かに愛されたこと、
絶対忘れない。
景吾は私を恨んでる?怒ってる?
私と出会って、恋をして、一緒に過ごしたあの時間を、忘れたいと思ってる?
恨んでもいい。怒ってもいい。私を嫌いになっても構わない。
でも、お願いだから、私と一緒にいたあの時間を、なかったことにはしないでください。
どんな小さな思い出でも構わない。
私のことを忘れないでください。
そして、願うのは、あなたが思い出す私が、幸せな思い出であってくれたならと思います。
いつかあなたは、自分の隣に立つたった1人の女性を見つけるのでしょう。
その人が羨ましい。
あなたに愛され、あなたを愛することができるその女性は、どんな人なのか。
きっと一緒にいた頃の私とは違い、逃げたり、隠したり、そんな弱い女性ではないのでしょう。
孤独や寂しさを埋め、温かさや微笑をくれる女性が、きっといるはず。
あなたが選ぶその女性がどんな人かは分からないけど、
あなたが私と恋したことを恥ずかしいと思わないように、私も胸を張って歩ける強さを手にいれたいと思います。
18歳になった景吾へ。
あなたが生まれたこの日を祝うプレゼントを贈ることはできなかったけど、
心からの感謝を伝えたいと思います。
あなたが生まれてきてくれたことに、私と出会ってくれたことに、私を愛してくれたことに、
私が愛する人、跡部景吾に、あなたが生まれてきたことに、心からの感謝を。
お誕生日、おめでとう。
あなたがあなたらしく、跡部景吾らしく、幸せでいることを心から願っています。
「…ふざけんなよ」
白い便箋に、彼女らしいきれいな字で書かれた手紙は、跡部の心を締め付けていた。
確かに自分たちは大人じゃない。
彼女の家庭環境をどうにかできるほど、大人ではなく、大人の力を必要としているのかもしれない。
だが、一緒にいることはできたはずだ。
こんな終わり方ではなく、もっと何か別の未来を一緒に手に入れられたはずだ。
それでも、彼女が隠していたことを、何も聞きだせなかったのもまた事実で。
それを話せるほどに強くなかった彼女と同じように、
彼もまた、彼女からそれを無理矢理にでも聞き出し、支えることができるほど、強くはなかった。
誰かのせいにしたりとか、相手を信じられなかったとか、そんな問題ではなく、
問題だったのは、自分自身の弱さ。
「確かに、ガキだよな…」
こうしていなくなった彼女を探し出す手段も、持っていない。
学校を、家族を、生活を、将来を、すべて捨てることもできないし、
それらを護ったまま、これ以上何かができるわけでもない。
ただできるのは、彼女が願ったように、彼女も幸せであることを願うことだけ。
彼女が彼女らしく、らしく、何かを隠すのでも、何かから逃げるのでもなく、
ただ彼女のまま、幸せであることを願うだけ。