11月



ブルーラインからレッドに乗り換えてハリウッドへ、グリーンに乗り換えればL.A.へ。
目の前に広がるのは、広大な海。
そんな場所に今、私はいる。
11月といえば、東京ではコートが必要になる季節かもしれない。
でも、ここではそんなもの必要ない。
このアメリカの空の下、ロングビーチの潮風の中では。


「ただいま戻りました」
海が見渡せる真っ白な家。こんな家は手入れが大変だと思うのに、それでもこの家が大好きだ。
大きな扉を開け、大きな窓のある広い部屋に入れば、そこにいるのは、大人。
私を「子供」と言い、今はもういない母のように愛してくれる、大人だ。

「おつかい、ご苦労さま」
「はい、これ。向こうから預かった資料。明後日までに連絡ください、って」
大きなパソコンが置かれたデスクの上に、ドサッと荷物を置けば、いかにも面倒くさそうな顔が帰ってくる。
子供みたいに拗ね、わがままで、それでも大きな会社の社長だというのだから、は呆れてしまう。
「いい加減、会社行けば?ダン」
「いいんだよ。こうして秘書もできたことだしね」
「……」
出社拒否までしている社長の秘書は、ちゃんと会社にいる。
はもちろん秘書なんかではないし、そんな仕事もしていない。
このアメリカという国でダンと暮らし始めてから2ヶ月、は走り回っている。
ダンのおつかいや、資料探し、荷物持ち。それに加えて、自分のバイトと、忙しい日々を送っている。
こうして動き回る日々が、東京を離れた寂しさをいくらか、埋めてくれている気がする。
幼い頃から過ごした土地でも、2年以上離れていた場所で暮らすのは些か戸惑いがあった。
だからこそ、ダンのおつかいという、忙しい日々が助けになった。
そんな優しさが、は嬉しくなる。
「ダン、私買い物行ってくるね。夕飯、リクエストある?」
「任せるよ」
そう言いながらも、ダンは今渡された資料に注目している。
子供みたいで、わがままで、出社拒否までしていても、こんなところが仕事をしている大人なのだと、
は静かに扉を閉め、その部屋を後にした。



小高い丘の上にある、墓石の並ぶこの場所の一角に、1年中、花が咲き誇る場所がある。
その小さな花畑の前で、は毎日のように白い墓石に向かって話しかけている。
これまで話せなかった言葉を、想いを、今は天国にいる母親に向けて。

「ねぇ、ママ。私がした選択、間違ってないよね?」

もう何度、同じ問いをしただろうか。
誰にも何も言わず、日本を、東京を離れてしまったこと。
跡部に、莉子に、手紙を出したけど、それだけだ。
連絡先すら書かなかったその手紙の返事は、当然のように来ることはない。
それでも、それで良かったのだと、何度も確認するように、母親に話しかける。
母親の名が刻まれた墓石が答えを出してくれることはないが、それでもは問わずにはいられない。
これで良かったのか、と。
何が正しい選択なのかは、こうして2ヶ月が過ぎた今でも判らない。
それでも、あの全国優勝のテニスコートで、跡部に勝利のキスを贈ったことだけは、今でも後悔していない。

何もかも、誇らしかった。
トロフィーを掲げて歓声の中にいる彼も、彼の周りにいる仲間たちも。
彼らを応援してきた観客たちも、彼らに敗北した相手チームさえも、何もかも、輝いて見えた。
そんな中で、自分に真っ直ぐと歩いてきた跡部に、は、もう何もかも隠したくないと、思ってしまった。
何も知らない周囲の目も、1番知られてはいけない亜樹の目も、すべてがどうでも良かった。
誰かの視線を気にするより、大声で叫びたかった。
この、最高に輝いている男を愛しているのだと。この男を愛していることが、私の誇りだと。
生活とか、学校とか、そんなものを忘れるくらい、あの瞬間、跡部景吾しか目に入らなかった。

「すごいよね。人生初だよ、あんなの」
思い返してみれば、恥ずかしく、頬が熱くなってしまう。
公衆の面前で、自分からキスをし、抱きしめ合ったのだから。
それでも、あの瞬間は、胸元で、今も輝き続ける真珠のように、キラキラとしている。
「すごい男でしょ、跡部景吾って。私の人生、変えちゃったんだよ?」
何もかも、変えてしまった人。

平穏無事に、何事もなく、目立たず、地味に、静かに、ただ高校生活を終える。
そんなの目標を、跡部は、粉々にぶち砕いてしまった。
3年に半年足りなかったの高校生活は、平穏無事という言葉とは程遠かった。
誰かと恋することなんて、彼女の予定にはなかった。
人生初めての大恋愛は、ドキドキして、ハラハラして、たくさん笑って、たくさん泣いた。
今でも、彼を、毎日のように思い出す。目を覚ましたとき、道を歩いているとき、本を読んでいるとき、紅茶を飲んでいるとき。
そのたびに泣きそうになってしまうのは、今はもう、彼の声を聞くことも、彼の手に触れることもできないからなのか。
「会いたい」と、いつでも思う。
そしてすぐ、「会えない」と思い出す。

彼の低い声が耳に残っている。彼の大きな手の優しさを忘れたことなんてない。
柔らかい髪も、真っ直ぐ前を向いている瞳も、得意げに歪む唇も、広い肩幅も、力強い腕も、
彼の何もかもが、恋しい。
それでも別れを選んだのは、今の2人に未来はないと思ったからだ。
学校に通うことができなくなる。仕事をして、自分の生活を守っていかなくてはいけなくなる。
そんな選択肢を考えなかったわけではない。
でもそれでは、いずれ駄目になる。別れがくる。
未来を見つめ、輝き続けている彼と、自分のやりたいことも解らず、ただ生活するだけの自分。
最後と決めたテニスで自分の夢を叶えた跡部を見た瞬間、自分の弱さに、情けなさに、胸が締め付けられた。
逃げているだけの自分とは違う。隠れているだけの自分とは違う。
堂々と前を向き続けている彼に、甘えているだけの自分が悲しかった。

「ホント…、かっこよすぎるんだから」
涙の溜まった瞳で思い出すのは、今でも恋しい跡部の姿だ。
気付かなければ良かったのかもしれない。
彼と自分の差に。立っている場所の違いに。見つめている未来の遠さに。
そうすれば、例えどんな関係だろうと、どんな未来だろうと、もう少しの時間は一緒にいられたかもしれない。
それでも、気付いてしまった。
だからこそ、は選んだのだ。
いずれ来る、惰性の先にある別れではなく、今このときの、幸せな時間の中の別れを。

いつか、などという未来は、知らない。
それでも願わずにはいられない。いつか来る未来を。
いつか、私が、強くなったとき。
いつか、私が、自分の足で立てるようになったとき。
いつか、私が、この想いを、誰にも隠さず、堂々と叫べるようになったとき。
いつか、私が、自分だけではなく、彼を支えることができるようになったとき。
いつか、いつか、何の約束も、確証もないけど、いつか会える日を、願わずにはいられない。


小さな花畑で、鮮やかな花々と彼女を愛する母親が見守る中、はしっかりと胸元を握り締める。
そこにあるのは、一粒の真珠。
真っ白な輝きを放ち続ける真珠を握り締めたの手に、一粒の涙が落ちた。





「お、雨さんやな」
どんよりとした曇り空から落ちだした雨雫は、すぐに勢いを増し、テニスコートを濃い色へと変えていった。
受験勉強の息抜きにと、軽い打ち合いをしていた跡部と忍足も、雨脚から逃げるように、屋根の下へと急いだ。

「すぐ止むとええんやけど」
「……」
降り続ける雨を無言で眺め続ける跡部の左手は、彼の胸元にある。
が彼らの前から姿を消した日から、忍足は、何度も同じ仕草をする跡部を見ている。
全国優勝が懸かったあの試合で、何度もそうしていたように。
ただあの時と違うのは、跡部が探る胸元に、真珠はないということ。
が「お守りに」と跡部に渡した真珠は、会場でに返されたまま、彼女と共に去っていってしまった。

「なぁ、景ちゃん。知っとる?人魚の涙、っちゅうの」
「あ?何言ってんだ?」
突然、妙な話をし始めた忍足に、跡部が向けるのは、疑わしい視線だ。
「真珠のこと、人魚の涙、言うねん。失恋した人魚姫の涙が真珠になったいう話や」
「それがどうかしたのかよ」
「えぇ話やと思わん?人魚姫の悲しい涙は、貝の中で大きゅうなって、真珠になるんや」
「お前のロマンチシズムに付き合ってられっかよ」
忍足の話を馬鹿にしつつも、跡部の中では、今はもう手の届かない真珠が、の涙のように思えて仕方なかった。
涙ではなく、笑顔の自分を思い出して欲しい。そんなふうに彼女は願っていた。
それでも、空から降り続ける雨と、忍足の話は、どうしてもの泣き顔を想像させてしまう。
「おとぎ話なんか知るかよ」
独り言のように呟かれたその言葉は、跡部の願いを表していたのかもしれない。
「せやな、おとぎ話も伝説話も関係あらへん。せやけど、人魚の涙は、幸せの象徴なんやで?」
「てめぇ…、今、悲しい涙って言ったばかりじゃねぇか」
「真珠は王子様を思い続けた人魚姫の一途な心や。せやから、花嫁さんの宝石やろ?」
「……」
忍足の都合良すぎる解釈に、跡部は呆れてしまう。
「願い事が叶うとも言われとるしな」
「…クッ、お前らしいぜ」
笑いを零した跡部に、忍足もニッと微笑んだ。

おとぎ話なんか、知るか。伝説なんか、クソくらえだ。
俺らは昔話の世界に生きているわけじゃない。
それならば、今を生きる者らしく、今を信じればいい。

。お前が望むなら、俺は、お前の笑顔を思い出してやる。
だから、お前は、今も、笑ってろよ? 俺の隣にいた、あの頃のように。


一向に止む気配を見せない、どんよりとした雲の下、跡部の心に浮かぶのは、幸せそうなの姿だった。







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