12月
氷帝学園高等部に入学し、男子テニス部のマネージャーを1年務め、3年の9月に退学した。
そんな生徒がいたことなど遠い昔のように、学校はいつも通りの日常を送り続ける。
テニス部を引退した3年生たちは、本格的な受験シーズンに教科書や参考書を広げ、
先輩の後を引き継いだ後輩たちは、その名に恥じぬよう、今日も黄色いボールを追い続ける。
「平和やな〜」
外の寒さなど露知らず、優雅にお茶をすする忍足の姿に、莉子は血管が切れるのを感じた。
「平和なんかじゃない!センターはすぐそこ!勉強しろ!」
「そないなこと言わんで、受験生には息抜きが重要なんやで。篠谷」
「あんたは、息抜きばっかでしょ!」
外ではクリスマスソングが流れ、恋人達が浮かれるこの季節も、受験生にとっては関係ない。
センター試験は目の前に迫っているのだから。
「大体ね、推薦組のあんたや、常にA判定のあんたはいいかもしれないけど、C判定のこっちは必死なのよ!」
跡部と忍足を指差して怒鳴る莉子は、正確に言えば「こっち」ではない。
彼女の成績は、志望大学の合格ラインを余裕でクリアしているのだから。
それなのに必死になっている莉子の横では、本当に「こっち」側にいるジローが、莉子の言葉に項垂れている。
「篠谷…、ジローが落ち込んどるで」
「大丈夫!ジローちゃん。頑張って同じ大学に行こうね」
「うん!俺、頑張る!」
手を合わせ、頷き合う2人に、忍足はやってられないと視線を外し、跡部は小さな溜息を吐く。
「勉強会」と称して彼らが集まって来るのも、もう恒例化した。
学校で、図書館で、跡部の家で、テニス部は引退したというのに、こうして集まってくるのは、お馴染みのメンバーだ。
ジローは、同じ大学を目指す莉子と共に、顔を付き合わせている。
その後ろでは、宍戸や日向も参考書を広げている。
今は息抜きを楽しんでいる忍足も、数分前までは無言で問題に取り組んでいた。
そんな中で、彼らより一足早く、推薦という形で志望大学の合格を手に入れた跡部は、1人優雅に読書に勤しんでいる。
そして質問が出れば、まるで教師のように、彼らの答えを導く手助けをする。
こんな時間が、もう日常と化していた。
莉子を除けば、同じ部活動で一緒に過ごした仲間たち。
だが、この場所に、柴田亜樹はいない。
時折それを不自然に感じることもあるが、誰ひとりとしてそれを指摘する者はいなかった。
跡部景吾が隠し続けた「お姫さま」の正体が発覚したあの日。
宿舎の食堂で交わされた言い争い以降、跡部と亜樹の間に何があったのか、正確に知っている者は少ない。
ただ、そのお姫さまが学校から姿を消した9月以降、跡部が亜樹を相手にしていないのは、学園中が知っている事実だ。
テニス部の引退式でも、その後の打ち上げでも、跡部は亜樹を見ようとはしなかった。
それまでと変わらず、側に居続けようとする亜樹を無視するように、彼は視線すら合わせようとはしなかった。
テニス部は引退した。クラスも違う。教室も離れている。
そんな中で、休み時間も放課後も、教室にいない跡部を、亜樹が探す日々が続いている。
携帯電話の着信拒否、跡部邸での門前払い。
そんなことを続けられても怯まない亜樹は、ある意味一途なのかもしれない、と跡部も思う。
それでも、亜樹の顔を見れば、話をすれば、恨み言をぶつけてしまいそうな自分がいる。
は言っていた。後悔や憎しみで、自分たちの思い出を濁らせたくない、と。
それがの望みなら、跡部もその望みを叶えてやりたいと、そう思う。
例え今となっては、触れることさえできない関係だとしても。
「跡部君、コーヒー貰うよ」
「ん?…あぁ、篠谷か。好きにしろよ」
皆が集まっている部屋の奥、小さな簡易キッチンにいた跡部の返事は、本当に今、莉子がそこにいたことに気が付いた、というものだった。
皆の前からいなくなって30分、彼はずっとここにいたのだろうか、と、莉子はそのボーっとした表情を見つめた。
この男の恋人であり、自分の親友であるがいなくなって、もう4ヶ月になろうとしている。
莉子が跡部のこんな表情を見るのは、これが初めてではなかった。
「…何だよ。勉強はいいのかよ」
「ん?ジローちゃんにも休憩は必要でしょ?」
「確かにな。スパルタが過ぎると嫌われるぜ」
「大丈夫。ちゃんと愛はありますから」
空になったマグカップに新しい珈琲を注いで、莉子はそのまま跡部の横に並んだ。
「…何だよ」
湯気の上がる珈琲を冷ましながら、莉子は跡部の顔を覗き込んだ。
「…1年生の日野さんだっけ?もう、破局?」
「別につきあってたわけじゃねぇよ」
気まずそうに視線をそらした跡部に、莉子は柔らかい笑みを浮かべた。
跡部の新しい女の噂が出たのは、12月に入ったばかりの頃。
もうを忘れたのかと、最初は怒った莉子も、その新しい彼女を見て、何も言えなくなってしまった。
「ちょっとだけさ、似てたよね。あの子」
「…全然似てねぇよ」
黒い髪の毛の長さと、同じくらいの身長、似た体形。
それだけでなのに、同じ制服を来た彼女を後ろから見れば、思わず話しかけてしまいそうになる。
跡部の横にいる彼女を見て、莉子が思わず息を呑んだように、
跡部はその1年の女子を気に掛けたのも、その姿に忘れられない何かを重ねたからなのだろう。
「…寂しがり屋」
「あ?」
「がさ、跡部君は寂しがり屋なんだって言ってた。ただの惚気だと思ってたんだけど」
じっと自分を見つめる莉子の姿に、それを言ったというを、跡部は思い出してしまう。
いつだったか、忍足も同じようなことを言っていた。
がいなくなってたった3ヶ月しか過ぎていない。
それなのに、他の女を求めようとした自分は、本当に寂しがり屋なのかもしれない、と、
それまでには考えたこともなかった、自分の意外な性格を呪う。
だが、跡部は知っている。自分以上に寂しがり屋な人物を。
甘えることが下手で、それでもいつも他人の体温を恋しがっていた彼女を思い出し、跡部は自嘲するように微笑んだ。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。んなわけねぇだろ」
「私はさ、あんたが寂しがり屋だとか、どうでもいいんだけど」
ちょうど良い温度になった珈琲の入ったマグカップを片手に持ち直し、莉子は跡部の正面に来た。
人差し指を真っ直ぐに立て、つんと、跡部の胸を押す。
「何だよ」
「跡部景吾はさ、諦めない男、でしょ?」
「あ?」
「代わりで満足するような男じゃないでしょ」
器用にウィンクをし、キッチンを出て行く莉子を、跡部はただ呆然と見ていた。
莉子が指で押したその部分に、跡部は手を当てる。
そこは、いつも無意識に何かを探している場所だった。
寄って来る女達の中で1年のその彼女に目がついたのは、面影を追っていたからだと、
彼女とたった数時間過ごしただけで、気がついた。
自分が何を求めていたのか。
そして、彼女はではない、と。
寂しがり屋。そう言われれば、それに素直に頷くことはできない。
だが、諦めない男。そう言われれば、当たり前だと、胸を張って言える。
代用品なんかは、自分には似合わない。この俺様に相応しいのは、本物だけだ。
そう考えてしまえば、そう腹を括ってしまえば、この胸のモヤモヤもすっと晴れていく。
俺は誰だ?
代用品なんかは、いらない。
欲しいものは手に入れる。手に入れたものは、誰にも譲らない。
失ったものは、この手で取り返してきた。
そうやって生きてきた。
それが、跡部景吾だ。
が願っていたのは、俺が俺らしく、幸せであること。
ならば、答えは決まっている。
「覚悟しとけよ、」
久々に、本当に心から、楽しかった。
やることは、山のようにある。
進学は決まっても、まだ学校はあるし、結果を見届けてやらなくてはいけない仲間たちの受験もある。
家に戻れば、相変わらずのように両親は不在だし、自分の肩書きは未だ高校生だ。
それでも、やらなくてはいけないことは見えていた。
「まずは、親父たちだな」
誰もいないその場所で、確認するように呟いた跡部は、受話器を取り、執事へと繋がるボタンを押した。
。覚悟しろよ?
俺が俺らしくあることを望んだのは、お前自身だ。
俺の幸せを望んだのは、お前だ。
だったらその結果は、しっかりとその身で受けてもらわなきゃいけねぇだろ?
胸元を握り締める跡部の顔は、彼特有の俺様な笑みが浮かんでいた。