2月
12歳までは、母親と2人だけで向かえた。
それから2回は、ダンが加わって3人で。15歳は、独りきりだった。
16歳は、初めて、愛しい人の腕の中で、愛されることを知った。
17歳のときに貰った、きれいな薔薇は、今でもそのまま、鮮やかに咲き続けている。
「おはよう。18歳の私」
軽快な音楽の目覚まし時計に朝を迎えたは、鏡の中の自分に微笑みかけた。
古代ローマ帝国時代、結婚の神ユノの祝日に、キリスト教司祭のバレンタインが処刑されたという。
禁止された兵士の結婚を執り行ったバレンタインが天に召されたこの日は、愛を誓う日とされてきた。
そんな日に、この世に生を受けたことを、は誇りに思っている。
母親に愛されている。
ダンに愛されている。
そして、心から愛する人がいる。その人に愛された思い出がある。
それを思うと、こんな日に年を重ねるのは、最高に幸せなのだと、そう思える。
「、起きてるかい?」
「もちろん。Happy Valentine!」
「Happy Birthday」
こうして軽いキスを頬に交わす挨拶も、今では自然になった。
「今日こそは会社に行ったら?ダン」
「そのつもりだよ」
いつものように、出社拒否を続けるダンをからかうつもりで言ったに、いつもとは違う返事が返ってきた。
「…本気?」
「あぁ。今日は会社に泊まるから、明日の晩、ゆっくりお祝いしよう」
「それは構わないけど、何の心境の変化?」
「一応、社員の生活を預かる社長だからね」
そう言って微笑むダンは、それまでの出社拒否など嘘だったかのように、楽しそうだった。
「、誕生日プレゼントを用意してるんだ。受け取ってもらえるかな?」
「嬉しい!」
満面の笑みを浮かべるに、ダンは笑顔で一枚のカードを渡した。
「…これがプレゼント?」
カードに書かれているのは、も良く知っているホテルの名前と、ルームナンバー。
「正確には、その部屋にあるものだよ」
「何があるの?」
「プレゼントの中身は、箱を開けるまで知らない方がワクワクするだろう?」
「……」
渡されたカードを手に、不思議そうな顔をするが、ダンは可笑しくてたまらない。
箱を開けたときの彼女の様子を想像すれば、その笑みは止まらなくなる。
「…よく解らないけど、ありがと、ダン」
「楽しんでおいで」
郊外の落ち着いた雰囲気の高級ホテル。
そのフロントで自分の名前を言えば、にっこりと笑ったスタッフに、は部屋まで案内された。
ビーと、鳴らされた呼び鈴に、は首を傾げる。
中に誰もいないのなら、呼び鈴を鳴らす必要はない。
プレゼント・ボックスの中身は、どうやら人が関係しているらしい。
ホテル・スタッフに促され、開けられた扉に歩みを進めた。
閉じられた扉を背にゆっくりと中へ進めば、眩しい光の中に、人影がある。
「…Who?」
「もう忘れちまったのかよ。薄情な女だな」
懐かしい日本語。
そんなはずはない、と、は自分の耳を、自分の目を疑った。
くすぐるような低い声も、光を背に得意げな笑みを浮かべるその姿も、すべて、懐かしかった。
「何で…」
「…デコ丸出し」
「な…っ!」
額を両手で必死に隠し、真っ赤になっているが可笑しく、跡部は笑いを堪えていた。
もう何も隠す必要がなくなった生活。伸び始めた前髪は、頭のてっぺんに止められている。
よく見れば、額を覆う手の指先には、桜貝のようなマニキュアが塗られている。
ふんわりとしたドレスと真っ白なカーディガンは、とてもよく似合っていた。
日本にいた頃とは違い、おしゃれをしたは、自分の知っている彼女より綺麗になっている気がした。
その事実に悔しさは感じるものの、それでも跡部は嬉しかった。
自分を睨みつける彼女の瞳は、何も変わっていない。
それに、跡部はしっかりと気付いていた。彼女の胸元に輝く、自分が送った真珠のネックレスに。
「そんなに着飾って、どこに行くつもりなんだよ?」
楽しそうに、からかうように見下ろす跡部を、は睨み続ける。
「一体いつから、ダンと連絡とってたのよ」
相変わらず察しの良いに、跡部は笑いながら「1ヶ月くらい前だな」と、答えた。
「信じられない。私に黙って…ひどい!」
「ひどいのはどっちだよ。久しぶりに会ったってのに、俺に言うことはねぇのか?」
光の中から、1歩、自分に近づいてきた跡部に、は思わず後退りしてしまう。
「…ごめんなさい」
ごめんなさい。あんなふうに逃げてしまって。
1歩、1歩と近付いてくる跡部に、は1歩、1歩と後ろへ下がっていく。
ごめんなさい。何も言えずに逃げてしまって。
「、俺が聞きたいのは、そんな言葉じゃねぇぜ」
トンと、背中が壁に当たれば、それは、もう逃げ道がないことをに教えていた。
「ごめんなさい…」
はこれ以上、何も解らなかった。
何を言ったらいいのか、何を言ってもいいのか。口にすべき言葉が見つからなかった。
これ以上後退することができないに対し、跡部は既に目の前だ。
彼が手を伸ばせば、はすぐに掴まってしまうだろう。
だが跡部は止まった。あと1歩進めば、に触れる、その場所で。
「お前の保護者から伝言だ」
「…ダンから?」
「子供だからという理由で、諦め、手放すことを、覚える必要はない。もっと親に甘えなさい。君は僕の娘なのだから」
「いい父親だな」と微笑む跡部に、は熱いものが込み上げてくる。
「俺様に言いたいことがあるんじゃねぇの?」
手を伸ばし、長い指先で、跡部はの真珠に触れる。
そこから伝わるのは、がずっと恋しかったぬくもりで、抑えきれない何かが外に出たいと、叫んでいるみたいだ。
「。距離なんかに負けるわけねぇだろ?」
「……っ」
一度溢れ出してしまえば、もうにそれを止めることはできなかった。
「会いたかった…っ」
溢れ出す涙と共に、口から出たのは、ずっと秘め続けたの叫びだ。
満足そうに微笑んだ跡部は、壁に背を預けたままのを引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。
自分の腕の中で震えるその存在に、跡部は、この5ヶ月、足りなかったものが、漸く満たされた気がしていた。
他のものではだめなのだ。
体中で感じるこの存在こそが、ずっと求めていたもの。
胸に感じる震えた声も、しがみつくような細い腕も、指を通せば滑り落ちていく髪も、
この腕でぎゅっと抱きしめるこの存在のすべてが、体中を満たしていく。
「会いたかったの、ずっと…。景吾に会いたかった…!」
震える声で叫び続けるに、跡部は抱きしめる力を強くすることで、自分の想いを伝える。
会いたかったのは、お前だけじゃない。
「景吾ぉ…」
自分の名を呼ぶその声を、何度夢見たことか。
「バーカ。我慢なんて、してんじゃねぇよ」
顔をグシャグシャにし、溢れる涙いっぱいで、自分に「会いたかった」と言うに、跡部はキスを贈る。
そっと唇が触れるだけの、優しいキスを。
「…私のこと、怒ってる?」
「当たり前だろ。この俺様を騙しやがって」
「…嫌いになった?」
「……」
「恨んでる?憎んでる?」
何度も、そうしようと思った。
だが、それでも最後に残るのは、子供のように泣き続ける女へのどうしようもない、愛おしさ。
「景吾…」
不安いっぱいの表情で自分を見上げるに感じるのは、恨みでも憎しみでもない。
「嫌いな女を追いかけるほど、暇じゃねぇんだよ」
目尻に溜まった涙を拭い、その頬に手を当てれば、今度贈られるのは、激しいキス。
不安を奪い去るように、想いをぶつけるように、そこにあるものを刻み付けるように、跡部はにキスをした。
一度は、別れを決意した。
例え、それが身を裂かれるように辛くても、それが最善の方法なのだと、信じようとした。
一度は、忘れようとした。
例え、求めるのが身代わりでも、それしか方法がないのだと、自分に言い聞かせた。
それでも今、こうして熱を感じ、熱を与え合えば、それさえもくだらないことのように思える。
子供だからと決意した別れも、代わりに求めた模造品も。
子供でも、周りの助けがなくては存在できない関係でも、
それでも今、ここにある想いが真実なのだと、それだけが未来なのだと、2人はお互いを感じあった。
「お前はここで、俺は東京で。なかなか会えねぇけど」
「うん…」
「そんなの、関係ねぇよな」
「うん…」
「何十年の中の、ほんの一瞬だろ?」
「…は?」
懐かしいぬくもりの中で、跡部の声に頷いていたは、思わず顔を上げた。
彼は今、何と言った?何十年?
「…何だよ」
「何十年の中の…って?」
本当に何も解っていないと、呆けた表情のに、跡部は大きな溜息が出る。
「てめぇ、不満なのかよ」
「何のこと?」
ハァと、大きな溜息をもう一度吐き、跡部はの左手を掴んだ。
「景吾?」
「親父たちに頭下げて、お前の保護者に宣言して、今更後戻りできっかよ」
人生初かもしれない。両親の前で頭を下げたのは。「どうしても欲しい女がいる」と頼み込んだ。
確実に人生初だった。1人の女のために、その父親につきあいの許しを請うたのは。
人生で一度の恋だと、生涯の愛だと、宣言してきたのだ。
自由登校とは言え、高校生の海外旅行の許しを得るため、
未成年でも、この先一生の人生を左右する大事な誓いのため、
跡部は大人たちに頭を下げてきたのだ。
「ま、後戻りする気はねぇけどな」
「景吾?…イタッ」
掴まれた左手の指に、ギッとした痛みを感じ、は思わず瞳を閉じた。
再び開かれた瞳に映ったのは、自分の薬指に舌を這わせる跡部の姿。
それはどこか卑猥で、官能的で、痛みの上に感じる舌の熱さに、は顔を真っ赤にした。
「いつか、親の力じゃなくて、自分の力で、ここに本物をはめてやるから、それまで空けとけよ?」
一度は止まった涙が、の瞳に溢れてくる。
左の薬指。そこにあるのは、跡部に噛まれた歯の痕。
それは第2関節と、指の付け根の、ちょうど真ん中に、まるで指輪のように付けられている。
「本物を」
そう言った跡部の意味に、は喜びを、嬉しさを隠すことができなかった。
これから先、何十年も…。
いつか、左の薬指に本物を・・・。
そんな言葉で交わされた約束は、きっとこの甘い痕が消えても、忘れることはできない。
遠い空の下でお互いを想う、触れ合えない長い時間も、きっと大丈夫だと、
指の痛みが教えてくれている気がした。