3月
「汚れが目立ちそう」なんて、文句を言っていた白いブレザーが、今はこんなにも恋しい。
新入生の中で、疎外感を感じていたあの4月。
今は、あの中にいることができない自分が、何となく、寂しい。
桜の木を彩るのは、まだ茶色い蕾で、
そんな中でも胸のコサージュと、「卒業証書」と書かれた布のホルダーを持つ彼らは、花咲いている。
後輩たちに贈られた花束の中の彼らは、光り輝いている。
「卒業おめでとうございます」
「寂しくなります。跡部先輩」
既に抱えきれない花束を腕に抱え、それでも差し出される花束を断らないのは、これが最後だからだ。
例え話したことすらない後輩にも、跡部は緩やかな笑みを向け、その贈り物を受け取る。
「…すごい量やな」
「てめぇもな」
式を終えた卒業生達が、校門前のロータリーで最後の別れを惜しんでいる。
その中でも、男子テニス部の集まるこの場所は、多くの人に囲まれ、人だかりができている。
最後の年に全国優勝という偉業を成し遂げた彼らに贈られる賛辞と惜別の念は、溢れんばかりだ。
中にはボタンやネクタイまで失い、だらしのない格好で涙している者もいる。
そんな中で跡部は、集まる後輩たちの頭の間を縫い、キョロキョロと周囲に視線を泳がせている。
まるでその中に、何か落し物を探しているかのように。
「誰か探してんのか?」
「まぁな…と、…いやがった」
「跡部?」
人混み中で、彼は見つけた。
例えどんなに人が溢れていようと、その後姿だけでも、彼女を見つける自信が、跡部にはあった。
押し寄せてくる人並みを押し分け、跡部が進むのは、この学園と外とを隔てる校門。
そんな自分の姿に注目する周囲の視線など気にすることもなく、彼の足は真っ直ぐにその場所へと向かっていく。
「こんなところで何してんだよ」
校門に隠れるように佇むその人物に声を掛ければ、ゆっくりと振り返る柔らかい笑顔。
約1ヶ月ぶりの再会に、跡部を優しい笑みを零した。
「…一応、関係者以外立ち入り禁止でしょ?」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。立派な関係者だろ?」
両手に抱えていた花束を半分押し付けられ、校門の内へと引き摺られていく。
こうして花束を抱えれば、彼らと同じように卒業生になった気がする。
それでもその身に制服はなく、卒業証書さえ貰うことは適わない。
「!」
一番初めに駆け寄ってきたのは、篠谷莉子だ。
彼女の手にはやはり、大きな花束と卒業証書が抱えられている。
花束が潰されることも構わず、抱きついてきた莉子に、も思いっきり抱きついた。
「バカ」
「うん…、ごめんね」
跡部の訪米以降、再び連絡を取り合うようになった親友との再会は、溢れそうになる涙を堪えなくてはいけなかった。
「何や、来てたんなら声くらいかけ。あんな場所で待っとることないやろ?」
まだこの氷帝学園の生徒だった頃と同じように、声を掛けてくれる忍足に、も同じように微笑み返した。
「久しぶりだな」
「いきなりいなくなったから、びっくりしたぜ」
集まってくる男子テニス部のメンバーに囲まれれば、あの1年の頃に戻ったような気になる。
男子テニス部のマネージャーとして、彼らと同じ時間を過ごしていた、あの頃に。
「それにしても…、、何か変わったな」
「いややわ〜、宍戸。そういうのは、別嬪さんになった、言うねん」
「なっ!俺は別に…!」
真っ赤になる宍戸をからかう忍足も、それを笑う周囲も、にとって、何もかもが懐かしかった。
賑わう中で、まるで当然のようにの隣に立つ跡部も、満足げに微笑んでいた。
前髪が挙げられ顕わになった額も、真っ直ぐに下ろされた黒髪も、薄く施された化粧も、
学園では見ることのなかったの姿だ。
白いコートに身を包み、声を挙げて柔らかく笑うを見るのは、彼らにとって、初めてのことだったのかもしれない。
だが、これがの本来の姿なのだと、跡部は知っている。
自分の前でしか、ごく限られた場所でしか見ることができなかった、の本当の姿。
それを知っている跡部は、隠す必要も、抑える必要もなくなったの姿に、手に持つ卒業証書以上の喜びを感じていた。
自分だけが知っているを、皆も知っていくその事実に、些かの嫉妬を覚えないでもなかったが、
コートの下には、あの真珠が輝いている。
薬指の痕は消えてしまったが、交わされた約束は消えてなどいない。
跡部は、その事実だけで充分だった。
白いブレザーの制服の中で、1人だけが私服だ。
卒業生達の保護者のような年齢でもなく、卒業生でも後輩でもない。
彼女を取り巻く人々はそんなことを気にしてはいないが、は僅かな寂しさを覚えずにはいられない。
本当なら、自分もこの中にいるはずだった。
彼らと同じように制服に身を包み、卒業式で名を呼ばれるはずだった。
もう少し自分が強ければ。あのとき、逃げ出したりしなければ。
そう後悔する自分を止められそうにもなかった。
「?」
笑顔の中に隠れた憂いに気付いた跡部の腕に、はそっと身を寄せる。
他人の視線がある中でも、こうして彼に甘えることができるようになった。
それだけでも喜ばなくてはいけないのかもしれない。
「どうした?」
「うん…。私も皆と一緒に卒業したかったな、って。少しだけ…」
「なら、やるか?」
「え?」
「お前の卒業式。講堂ももう空いてるし、今からでも遅くはねぇだろ?」
「それいい!」
「ええやん。俺らも一緒に卒業したいんやし」
賛成の声を挙げる周囲とは裏腹に、はその波についていけない。
「え?だって、私もう、生徒じゃないんだよ。勝手に入っちゃ駄目でしょ」
「ええって、誰も気にしぃひんって」
「気にするでしょ!」
「氷帝での俺様の権力、ナメんじゃねぇよ」
戸惑うを、周囲は笑顔で見つめる。
「でも、制服が欲しいよね。やっぱり。私と交換する?」
「そんなのいいよ!」
莉子の申し出に大きく首を振るの肩に、パサッと掛けられたのは、跡部のブレザーだ。
「これで充分だろ?」
ニッと笑う跡部に腕を引かれ、はその足を引き摺るように、彼らの波へと押し込まれていった。
「…寒いでしょ?」
いくら陽射しが暖かいとはいえ、ブレザーを脱いだ跡部の姿は、この3月の冷たさでは、誰が見ても寒そうに見える。
それでも跡部は、そんなことは気にするなとばかりに、コートを脱いだのワンピースに、自分のブレザーを着せていく。
ボタンをしっかりと留め、肩をポンと叩き、壇上を指し示せば、そこには楽しそうに微笑む彼らがいた。
「ほら、お前の卒業式だぜ。行ってこいよ」
ぶかぶかな跡部のブレザーに、そこから除くスカートもチェックではない。
教師も保護者もいなければ、後輩もいない。
誰も座っていない椅子ばかりが並べられた講堂の中で、たった数人だけの卒業式だ。
「お前の親はアメリカだから、今日は俺様が代理だ」
そう言って並べられた椅子の最前列に腰を下ろした跡部が、その長い脚を組めば、
いまだ戸惑うに構わず、卒業式は開始される。
「卒業証書、授与。卒業生、」
開式の言葉も、学園長の祝辞も、後輩の贈る言葉も、何もない。
「はい!」
それでもは、溢れ出そうになる涙を必死に堪え、大きな声で返事をした。
壇上に上がれば、嬉しそうに微笑む莉子が、何も置かれていない式台の前で待っている。
「卒業証書、」
そのいかにも教師ばった話し方がおかしく、は思わず笑ってしまった。
「え〜、コホン。、あなたは高校生活において、篠谷莉子という親友と素敵な友情を育んだことを認め、ここに卒業したことを証します」
自信満々に言い切った莉子に、は瞳を大きくした。
「篠谷〜。それ、ちぃっと違うんとちゃう?」
「おかしすぎるだろ、それ」
跡部の後ろに座った忍足たちから非難が飛んでも、莉子は自信満々だ。
「いいの!これが私の卒業証書なの!」
「は〜い!なら、俺も!彼氏として、莉子の大切な親友だったことを認めま〜す」
ジローが手を挙げて宣言すれば、それに続くように他の面々も彼らなりの卒業証を宣言し始める。
「いいマネージャーだったことを認めるぜ。1年だけだったけどな」
「成績優秀な生徒だったことを認めます」
「せやな。俺様男をメロメロにしたお姫さんやったことを認めんで?」
忍足の宣言に跡部が睨みつけても、周囲に興るのは笑いだ。
「ということで!は、私たちの素敵な仲間として、一緒に卒業したことを、私たちが認めます!」
莉子の宣言と共に興る拍手はまばらだが、それでもは、どんな歓声よりもこの拍手が嬉しかった。
「卒業証書はないけどね」と笑った莉子に大きく首を振れば、涙は留まることを知らずに、溢れ出してくる。
祝辞も、贈る言葉も、卒業証書もない、空席だらけの席の中で、あまりにも少なすぎる参加者の卒業式。
それでも、あたたかくて、優しくて…。
「ありがとう…っ、ありがとう…」
溢れ出る涙の中で、震える声でも、はどうしても伝えたかった。
この感謝の気持ちを、この喜びを。
「もう…、。泣かないでよ…」
そう言う莉子の瞳にも、涙が溢れている。
「ありがと…っ、ありがとう…」
溢れ続ける涙を隠すように、蹲ったを見ていた跡部は、席を立ち、壇上の前まで歩いてきた。
自分に背を向け、肩を震わせるその姿を見ても、胸に湧き上がるのは喜びだけだ。
「」
その声に引き摺られるように振り向いたは、そのまま跡部の腕に飛び込んだ。
高い壇上から飛び降りれば、あたたかな腕が自分を待っている。
ブレザーが涙で濃くなっていくのも構わずに、泣き続けるを、跡部はただ、優しく抱きしめていた。
「もう…、最悪。ひどい顔してるでしょ?」
真っ赤になった瞳で跡部の横を歩くの後ろには、未だ涙の止まらない莉子がジローに慰められている。
それをからかう忍足も、その瞳が潤んでいるのは隠せない。
「いいじゃねぇか。卒業式なんだからよ」
「忘れてるでしょ?この後のこと」
「忘れてなんかないぜ?」
この後の予定を思えば、跡部はニヤつくし、は緊張して仕方がない。
「あぁ、せっかくきれいにしてきたのに…」
そう言うの目蓋は未だ腫れ、化粧は落ちかけているが、それでも跡部は、彼女はきれいだと思う。
例え、化粧などしていなくても、グシャグシャに泣き崩れていても、はきれいだと、心からそう思う。
「景吾!」
呼ばれる声に歩みを止めたのは、これが最後だからだ。
例え顔を見たくないほどの相手でも、それでもこれで卒業なのだから。
「景吾!」
息を切らすように駆け寄った姿に眉を顰めるのは、跡部だけではない。
その関係を知っている莉子も、忍足も、同じような表情をしていた。
「景吾、ボタン、私にくれるでしょ?一緒に写真も撮りたいし…」
横にいるなどいないかのように、縋りつくように、甘えるように、跡部だけに話しかける。
「亜樹…」
がいなくなったあのとき、彼女を問い詰めたあの日から、跡部は久しぶりにその名を呼んだ。
「景吾。くれるよね…?」
彼女らしい涙を潤ませた瞳で頼まれても、跡部には何もあげられない。
ボタンのついたブレザーは未だが着ているし、それを奪ってまで亜樹に渡す気は、跡部にはないのだから。
「景吾!」
「ブレザーは、もうねぇんだよ」
跡部がコートの前を開き、そこにないことを示せば、亜樹の視線は隣にいたに映る。
その身にあるブレザーを睨むように、を睨み続ける。
昔は、そんなふうに睨まれれば、その後ろにある父親の存在に恐怖し、脅えたものだった。
だが、今となっては、この亜樹の睨みさえ、かわいそうに思えてくる。
例え、どんな性格でも、どんなことをされても、彼女が本当に欲しいものは、の手の中にあるのだから。
譲れない。どうしても、これだけは。
「亜樹…」
だから…。
「いいよ」
「おい…」
諌めるような跡部の声を遮り、はブレザーを脱ぎだした。
「」
「はい」
差し出されたブレザーは、呆然とする亜樹の腕の中へと落ちた。
「卒業おめでとう。亜樹さん」
「行こう、景吾」
に促され、踵を返し校門をくぐっていく跡部につられるように、莉子たちもその後を追った。
呆然とする亜樹に、忍足とジローが「じゃあな」と声を掛けたが、その声すら亜樹の耳には届いていなかった。
「良かったのか?」
「うん。ブレザーがなくても、私は皆と一緒に卒業したし…」
跡部の腕をぎゅっと握り、はにっこり笑った。
「それに、景吾がいるもの。ブレザーなんか、必要ないでしょ?」
「それもそうだな」
幸せそうに微笑むに、跡部も負けないくらい、満足そうな笑みを返した。
「俺らは車が来てるから、行くぜ」
「え〜、この後打ち上げじゃないの?」
「予定があんだよ」
「予定?」
「うちの親とな」
嬉しそうな跡部の横で、は頬を染め、緩やかに微笑んでいる。
「あぁ、そういうこと。なら、仕方ないか」
納得と、ジローに腕を絡める莉子の後ろでは、忍足が「きばりぃや」と、片目を瞑って健闘を祈っていた。
何の希望も、夢もなく、この校門を潜ったのは、3年前の入学式の日だった。
桜の花が咲き誇る中で、その胸の中に、何の芽も生えてはいなかった。
それでも、種は既に、そこにあったのかもしれない。
悔しくて、悲しくて、涙を流した日があった。
それは小さな種に芽を生やさせ、それはやがて蕾をつけ、大きな花を咲かせた。
高校生。
平穏無事に、と願ったその日々は、鮮やかな恋に満ちた日常だった。
人を愛し、愛されることを教えてくれた。
花はやがて枯れ、その身を大地へと返すのかもしれない。
それでも、その花が残した種は、命を繋ぎ、再び鮮やかな花を私たちに見せてくれるだろう。
強い風に吹かれたり、大きな雨に押し潰されそうになったり、でもそんなものがすべて、大きな花を咲かせるためには必要なのだ。
そんな花の命が繋がっていくように、この恋も繋がっていくのだろう。
私立氷帝学園。
この大きく聳え立つ門に、今、サヨナラを告げる。
この先に続く長い道は、きっと、たくさんの花で溢れている。
この3年間、ケンカして、涙して、辛くて、寂しくて、悲しくて、
それでも、嬉しくて、優しくて、あたたかくて、幸せで…。
そんな日常が、この先もずっと、続いていく。