4月
「……」
。彼女は、この4月を持って氷帝学園高等部の最上級生、3年生となった。
そして立ち尽くす。
それは、『高校3年生=受験戦争』という図式を懸念してのことではない。
彼女が立ち尽くすのは、ただ、目の前に提示されたクラス分けに、だ。
の名がそこにある不自然さなら、説明ができる。
彼女の高校卒業後の進路は、『就職』である。
彼女は、文系の方が好きだ。
趣味は読書だし、数式を解くよりも、古文を読み解く方が面白い。
ただ、必ずしもそれが点数に繋がるかと言えば、それは、彼女の成績表が答えを表している。
3年1組。
確かにその欄に、彼女の名前は、ある。
そして、彼の名前も。
彼の名がそこにある自然さなら、誰もが認める。
彼の名は、そこにあるべきであり、それ以外の場所が不自然なのだから。
納得がいかない。
それでもは、この不自然すぎるクラス分けをした教師を問い詰めるつもりはなかった。
それをした教師の気持ちが理解できないこともないし、何よりも、それをして、注目を浴びるのが嫌だった。
だが、これからの1年間を思うと、頭が痛くなる。
一体自分は、どうやって彼と同じ教室にいればいいのか、と。
廊下で擦れ違っても、挨拶を交わすほどには、親しくない。
だからと言って、この2年間、成績トップと次席として、名を連ねた相手を知らないというのは、不自然すぎる。
何よりも、それ以前に、過去の1年間だけ、2人は同じ部活に所属していたのだ。
微妙すぎる。
例えば、別のクラスなら、今までと同じように互いを避け、接触を持たなければ済む話だ。
例えば、本当にそれだけの関係なら、何の気を遣うこともなく、1年間を過ごせばいいだけだ。
だが、実際の所、2人は同じクラスで、2人はそれだけの関係ではない。
例えば、挨拶を交わすとき、
例えば、クラスメートとしてのおしゃべりに興じるとき、
そこに「それだけ」である仮面を被り続けることができるのか、には自信がない。
ほんの小さな触れ合いにさえ、歓びと高鳴りを覚えてしまうのに、何もないふりなど、本当にできるのだろうか。
。それは、この巨大な学園において、本当に地味な存在に違いないだろう。
一時期、あの男子テニス部に所属していたのも忘れ去られるくらい、彼女は目立たない存在だ。
数ヶ月に1度、試験結果の上位者としてその名を晒すものの、それ以外で彼女が話題に上ることはない。
規定どおりの制服に、真っ黒なだけの髪をひとつに束ねている。派手な化粧もしなければ、同性たちとはしゃぐこともない。
暗いわけではない。それでも、友人は極めて少なく、彼女のケイタイ番号を知っている者など、片手で足りるだろう。
授業は真面目に受け、成績は優秀。学校行事にも適度に参加し、放課後はすぐに学校を後にする。
時間ぎりぎりまで学校で過ごすこともなければ、他愛のない噂話に騒ぐこともない。
クラスメートと遊びに行くことも、ハメを外すこともない。
それが、だ。
実際の彼女がどうであろうと、それは、彼女の望む、自分の姿だ。
平穏無事に、何事もなく。
そう望んだ彼女の高校生活は、些かの事件はあっても、今のところ、上手くいっている。
全校生徒注目の男子テニス部のマネージャーになったこともあった。
謂れのない嫌がらせを受けたことも、ファンの女生徒たちの虐めを受けたこともあった。
だが、テニス部を離れて1年、そんなことはもう、昔の出来事だ。
それが今、覆されようとしている。
跡部景吾という存在が、目立たないわけなどないのだ。
彼はどこにいても、何をしていても、その強烈過ぎる存在を無意識にアピールし続けている。
その近くにいる存在が、同じように目立ってしまうように。
ただのクラスメートに過ぎないに、注目する人間はいないかもしれない。
それでも、少なくとも1人は、確実に、このクラス分けを面白く思っていない。
彼女が、そう、柴田亜紀という脅威の存在が、一体どのクラスにいるのか、興味はない。
だが、彼女は、彼と同じクラスになったを無視するほど、愚かではないだろう。
例え、物質的には何もしてこなくても、そこには絶えず、彼女の視線と監視が存在すると思ったほうが、利口というものだ。
ただでさえ、亜樹は彼の「お姫さま」の存在を快く思っていないだろうし、
彼女にその「お姫さま」の正体を知られるわけにはいかないのだから。
「だから言ったじゃねぇか。お前は1組か2組だってな」
得意げに自分の予測が的中したことを語る跡部にも、は何も感じない。
の胸中を占めているのは、ただ、不安、懸念、危惧、憂慮。
どんな言葉で語ろうとも、それは決して良い未来を暗示するものではない。
「…何、心配してんだよ」
「景吾は心配じゃないの?同じ教室で1年間も一緒にいるんだよ?」
「嬉しくねぇのか?」
「そんなんじゃない。いつバレるのかって、心配しかできない」
暗い表情のに、跡部は些かの不本意を感じる。同じクラスになって喜んでいたのは、自分だけなのか、と。
それでも、が本気で心配しているのは、跡部にも判る。
彼女は、病的なまでに、彼との関係が暴かれることを恐れている。
まるで、何かに追われているかのように、この関係の暴露が、すべての終わりだとでも言うように。
廊下で擦れ違っても、挨拶どころか、目を会わせようとすらしない。
それどころか、まるで自分を裂けているのではないかと思うほど、学園内で彼女の姿を目にすることは少ない。
この広い東京の地で、跡部は自分の家以外で、彼女と太陽の下を歩いたことはない。
跡部がのアパートを訪ねるときでさえ、彼女が気にするのは、周囲の目。
そのために、が跡部家を訪れる方が圧倒的に多い。
周囲の視線を気にしながら、裏門からこっそりと入り、そうして出て行く。
迎えにいくことも、送っていくことさえ、は良しとしない。
「そんな心配しなくても、簡単にバレやしねぇよ」
「……」
無言で自分に寄りかかるを、跡部は護ってやりたいと、心からそう思う。
彼女を脅かす、すべてから。
自分の周囲にいる騒がしすぎる女共を理由に、この関係を秘密のものにする。
そんな言い訳を信じていたのは、本当に少しの間だけだった。
学校でのと、自分だけの隣にいる。
そのあまりにも違いすぎる態度に、性格に、優越感を感じていられたのも、最初のときだけだ。
自分のように仲間に囲まれているわけでも、友人が多いわけでもない。
自分の前で見せる表情とは違う、どこか他人行儀な仮面を被ったままのを見かけるたびに、跡部の胸は締め付けられる。
見えない檻に縛られている。その鍵を、自分自身の手で開けてやりたいと思う。
だが、彼女が望んでいるのは、そんなことではない。
彼女が望むのは、この関係が秘密のままに保たれていくこと。
いつの頃からか、跡部も何かを感じ始めている。
彼女が恐れているのは、不特定多数の誰かではないということに。
一緒に過ごすようになって1年以上。
感情を、その想いを隠すことをしなくなったの中には、まだ、跡部の知らない何かがある。
それを知りたいという欲求は、常にある。
それでも敢えて、それを追い求めないのは、がそれを望んでいないからだ。
の周囲を取り巻く、不自然すぎる環境。
その不自然さに気付かないほど、彼は鈍いわけでも、彼女を知らないわけでもない。
だっていい加減、気が付いている。
跡部と特別な関係になって1年以上、彼がその疑問に気付かないはずないのだ。
不自然なことは、たくさんあった。むしろ、不自然なことだらけだと、言えるくらいに。
それを彼が追究してこなかったのは、ただ、それをが望まなかったからだ。
追究されることを。彼を巻き込むことを。失うことを。
彼の優しさに甘え、逃げ、避け続けてきた。
言ってしまえたなら、すべてを話し、その腕に縋りつくことができたなら、どんなに楽だろうと思う。
ただ、このトラブルに彼を巻き込みたくない。
彼と過ごしたのは、とても短い時間。
時間ではない、と彼は言うだろう。それでも、決して敵わない、積み重ねた時間というものも、確かに存在する。
彼を信じていないわけでも、疑っているわけでもない。
疑わしいのは、自分自身。彼の想いを信じきれない、自分自身の心だ。
の不安を拭い去るように、跡部はその大きな手で、彼女を包み込む。
あたたかい想いに包まれれば、その不安は忘れられるのかもしれない。
だが、それも一時のこと。
一度、彼女の存在を思い出してしまえば、忘れ去られたはずの不安は、大きくなって還ってくる。
高校生活が終わるまで、あと1年。
血という鎖から解き放たれるまで、あと4年。
そのとき、私は一体、どこに立っているのだろう?
彼は、どこに立っているのだろう?
今、こうして手を伸ばせば届く距離にいる存在が、そこにないことは判っている。
跡部という名を背負い、生きていく彼には、それに相応しい女性が必要だから。
家族もない、父親にさえ見捨てられた自分ではなく、
学歴も、教養も、後ろ盾も、何ひとつ持っていない自分ではなく、
彼の隣に立ち、彼を支え、彼のためになる、素敵な女性が、彼には必要だから。
高校生活。
できた友人は、数えるほど。人に胸を晴れるような、鮮やかな思い出は、本当に数少ない。
それでも、遠い未来、きっと思い出すのだろう。
人生で初めての恋を。
クラスメートに冷やかされることも、デートすらまともにできない、恋。
それでも、この熱く、鮮やかな恋は、きっと死んでも忘れることなど、できないだろう。