5月
教室で、毎日のように、彼の背中を見ている。
それでも、彼と視線を交わすことも、彼が後ろを振り返ることもない。
が見るのは、ただ、彼の後姿。
「景吾、じゃあこのメニューで練習始めておくね」
「あぁ…」
3年生になり、同じクラスになり、こうして彼と彼女が一緒にいる姿を、何回見ただろう。
の視線の先には、違うクラスだというのに、毎日のようにこの教室を訪れる、亜樹の姿。
亜樹の高い声は、この教室中に響き渡る。
嬉しそうで、幸せそうな、そんな「女の子」の声。
おそらく、この2人を見た誰もが感じるだろう、2人の親密さ。
そんなものを毎日のように見せ付けられ、の不安は増すばかりだ。
「…、どうなってんのよ」
「……」
昼休み、誰もいない屋上で昼食を広げると、友人の莉子。
そんな莉子が話題にするのは、他のクラスにまで広まっている、跡部と亜樹の噂。
「つきあってるんじゃないの?」
莉子にそう問われても、はただ、笑みを返すだけだ。
寂しげな笑みで答えるに、莉子は、自分の胸まで締め付けられる思いがする。
跡部と友人の関係を、声に出して叫びたい。
跡部のファンの嫉妬など、どうにかなるのではないかとも思う。
だが、当の2人がそれを望んでいない以上、莉子には何もできない。
跡部に纏わりつく莉子に文句を言うことも、彼のファンとの間に立つことも。
「…もう!私が跡部君に言ってあげる!」
「莉子!」
立ち上がった莉子を、が止める。
「だって…、おかしいでしょ!こんな噂、絶対、変だよ!」
「いいの。仕方ないし」
「仕方なくないでしょ!彼が否定すれば、済む話じゃない」
「いいの。ちゃんと、信じてるから」
跡部と亜樹の関係を疑ったことなど、には一度としてない。
それどころか、莉子の心配するように、跡部がするかもしれない浮気でさえ、は疑っていない。
彼が自分に向ける想いは、嘘でも偽りでも、何でもないのだから。
こうして心配してくれる友人の思いは、正直、も嬉しく感じる。
だが、この身に鎖が絡まっている以上、それさえもこうして受け流すしかできないのだ。
納得がいかないまま、莉子はその場に座った。
自分の恋と同じように、友人であるの恋も幸せなものであって欲しいと思う。
自分が彼といるときに感じるように、友人にもドキドキとワクワクを感じて欲しい。
限られた時間しかない高校生というこの時期、その恋を謳歌して欲しいと思うのは、この友人を思えばこそだ。
「、悩みがあればいつでも相談してね。頼りないかもしれないけど」
「そんなことないよ。莉子は大切な友達だもん」
にっこりと微笑むの顔に、嘘はない。
生徒会室でサンドウィッチを頬張る彼は、生徒会役員ではない。
生徒会室に用があったわけでも、この場所に思い入れがあるわけでもない。
彼がここにいるのは、ただ、ここが、話をするのにうってつけの場所だったからだ。
彼の向かいに座る、この部屋の主と、話をするのに。
「で、景ちゃんは、何を知りたいん?」
口にものを入れながら話す忍足に眉を顰めるものの、跡部は重い口を開いた。
食事中の友人とは違い、跡部の前には、芳醇な馨りを放つ紅茶だけが置かれている。
「亜樹のことだ。…いつから気付いてた?」
「いつから…って、けっこう最初からやな」
「最初?」
「初めは亜樹も真面目にマネしてたんやで?せやけど、後輩ができた頃から、人を使うこと覚えたんやろうな」
人を使うこと。それは決して悪いことではない。
多忙なマネージャー業を、迅速に効率よくこなすためには、それも必要だろう。
だが、忍足の言う「人を使う」が、そんな意味ではないことは、跡部にも判っていた。
「亜樹は景ちゃん前では、うま〜くやっとったみたいやし、気付かんのも無理ない思うけどな」
それでも跡部は、部長として、もう5年も付き合いのある仲間として、それに気付くことができなかった自分を許せなかった。
「ま、悪いことだけやないと思うけど、おいしいとこ取りばかりなんは、どうかと思うで?」
タオルを配り、ドリンクを配り、声を掛け、練習を取り仕切り…、そんな華やかな場面に、亜樹は常にいた。
マネージャー業の多くを占める、重労働は、すべて他のマネージャーに押し付けて。
その不自然さに、前だけを向き、煩わしさを避けてきた跡部は、気付くことができなかった。
否、気付いていたとしても、気も留めなかったのかもしれない。
「で、何でいきなり気になりだしたん?今までずっと無視しとったくせに」
「……」
無言の跡部の脳裏に浮かぶのは、の姿。
マネージャーなど気にも留めなかった跡部に、そのことを気付かせたのは、間違いなくの存在だ。
「…お姫さん?」
「…は?」
突然の指摘に顔を上げれば、そこには楽しそうに自分を覗き込む忍足の顔がある。
「何言ってんだ?お前」
「何や、やっぱりそうなんか」
「俺は何も言ってねぇだろ」
「せやかて、そうなんやろ?」
長年の仲間の変化に気付かないほど、忍足も跡部を知らないわけではない。
途端、彼は自分の想像が間違っていないことを悟り、楽しくて仕方がなくなった。
この俺様な友人を変えた女の存在。
テニスと自分が一番で、部員を大事にはしても、それ以外のすべては、どうでも良かった彼を変えた存在。
そんな1人の女の姿を思い浮かべ、忍足はにやつく顔を抑え切れなかった。
「…気味悪ぃ。ニヤニヤしやがって」
「いや、すごいな思うて」
「何がだよ」
「そりゃ、?」
「……」
射抜くように睨み付けられても、忍足はちっとも怖くない。
それどころか、再び当たった自分の想像に、楽しくてたまらない。
「…いつから気付いてたんだ?」
「せやな〜、修学旅行やな。確信したんは」
昨年6月の修学旅行。そんな以前から確信していたという忍足に、跡部は目を丸くした。
「怪し〜思うたんは、がマネ辞めたときやな」
「何で…」
「気に入ってたんに、全然引き止めんし、そりゃ怪しいやろ」
忍足の言うとおり、確かに跡部は、マネージャーを辞めるを引きとめようとはしなかった。
既に自分のものとなっていたを、無理に引き止める理由などなかったからだ。
だが、それを忍足に怪しまれていたとは、思いもしなかった。
「女遊びしなくなったんは、別に飽きたんでも、大人になったんでもないやろ?」
「……」
「周りはそう思うとらんけど、がいたからやろ?」
「何でそう思うんだ?」
「せやかて、景ちゃん、寂しがり屋さんやし?」
楽しそうに、嬉しそうに笑う忍足を、跡部は本気で殴りたくなった。
忍足が友人の変化に気が付いたのは、1年の夏合宿の後だ。
手を出す女の趣味が変わったかと思えば、すぐにそんな女遊びも辞めた。
周りに群がる女達を相手にしなくなり、何か面白いものを見つけたかのように、瞳が語っていた。
まるで、テニスを前にした彼のように。
イヴに早々と帰ったマネに不機嫌になったり、仲間の誘いを断るようになったり、家に不在なことが多くなったり。
気に入ってたマネが辞めるのを引き止めもせず、かと思えば、廊下で擦れ違っても、声すら掛けない。
修学旅行で、男の性について話していたとき、確信した。
「別に胸で女に惚れるわけじゃねぇだろ。馬鹿馬鹿しい」
今までほとんど無視してた相手に、跡部が放った言葉は、まるで告白のように聞こえた。
自分は違う、亜樹の胸に興味なんかはない、惚れているのはお前だ、と。
落ち込んでいるのは彼女の友人の莉子で、話題になっているのは、彼女の片想いの相手ジローで。
でも、跡部とに間にいた忍足には、その会話は、まるで恋人達のヤキモチのように聞こえた。
夏休みのプールでは、頑なに自分たちから彼女を隠し、
夏の大会では、観客席にも、自分だけに向けられる歓声にも、目を向けなかった。
ただ静かに、コートの上で瞳を閉じて、何かを想う。きっとあの時、跡部の中にいたのは、。
10月に「男友達」の誕生日プレゼントに悩むと、10月4日に居留守を決め込んだ跡部。
まるで周囲に見せ付けるように、リストバンドにキスをしたのも、きっと宣言するため。
大切な存在がいる、他の女なんか目に入らない、と。
バレンタインのチョコを全部断ったのも、亜樹さえも拒否し始めたのも、全部、のため。
俺様で、「天上天下唯我独尊」という言葉がぴったりくるような、迷惑な性格の友人。
だが、そんな表面とは別に、仲間を思い、テニスを大切にする、熱い性格の持ち主。
跡部家の一人息子として、過度のプレッシャーに応え、常にトップであり続けてきた。
あの大きな屋敷で、多忙な両親よりも、使用人たちと過ごした時間の方が長い人生。
そんな彼が、孤独でなくて、何だと言うのか。
周囲に群がる多くの人間を無視できないのも、
周囲の期待に応え続けることを、自分の使命のように感じているのも、
本当は孤独だから。
そんな彼の周囲に人が集まるのは、それに応えてくれる彼が居るから。
忍足もまた、跡部の強さに、熱さに、そして孤独に魅かれてここにいる、1人だ。
そんな孤独な友人が見つけた、たったひとつだけの存在。
それを思うと、忍足は楽しくて仕方がない。
真面目、勤勉、地味、普通。そんな言葉がしっくりくるのが、忍足の知っている。
それでも、目の前の跡部を変えてしまったのも、間違いなくそんな彼女。
きっと彼女は、忍足の知らない姿を跡部の前に晒すのだろう。
そして跡部もまた、長年の友人にも見せない自分を、彼女の前でなら曝け出すことができるのだろう。
「ええなぁ、景ちゃんは」
ふと漏らした意味の分からない忍足の感慨が、跡部の眉を顰める。
学園一の有名人で俺様な跡部景吾と、成績だけは優秀な普通の地味女子高校生な。
一見すれば、不釣合いな恋人同士。
それでも、2人を並べてみると、忍足には、こうとしか思えない。
とてつもなく、お似合いだ、と。
周囲が噂する、跡部と亜樹より、誰もが想像しないようなとの方が、彼にはしっくりとくる。
だが、そこで疑問がわいてくる。
「せやけど、何でお姫さんの正体は、秘密なん?」