6月



火の無いところに、煙は立たない。
こんな諺が今もって健在なのは、それが、必ずしも間違っていないからだろう。



「跡部景吾、ちょっと顔貸してくれない?」
突然教室を訪れた友人の姿に、は心から願った。
時間よ、止まれ!これは、夢でありますように…!


「何だ。ジローとのケンカの愚痴なら、聞かないぜ」
「ジローちゃんとケンカなんかしてません!」
生徒会室。今や、ここは秘密の話をするための、定番の場所のようになっている。
鍵を管理するのは、教師を除けば生徒会長1人なのだから、それも当然なのかもしれない。
そして今、その生徒会室で向かい合うのは、ここの主、跡部景吾と、彼の仲間と付き合っている篠谷莉子。
些細な諍いはあるものの、順調だというジローと莉子の交際。
話がジローのことでなければ、莉子の話の内容は、跡部にも容易に想像が付く。
ジローのことを除けば、この2人の接点など、あと1つしかないのだから。

「で?」
全校生徒の頂点を象徴するような、立派な机に腰掛ける跡部の態度は、やはり偉そうで、莉子は更に腹が立つ。
自分が言いたいことなど、判っているはずだ。
ここ数ヶ月、彼を取り巻く噂に、跡部自身が気付いていないはずなど、ないのだから。
のことに決まってるでしょ!」
「だから何だ?あいつとは別に問題なんかねぇぜ」
問題など、ない。そう言ったものの、真実はそうでないことは、跡部自身も知っている。
だが、それは莉子の関わることではない。
「問題は大有り!どうにかしなさいよ、あの馬鹿げた噂!」
「そのことかよ」
莉子の怒りの原因が予想通りなことに、跡部は、表情を変えた。それは、まさに、「めんどくせぇ」だ。
「そのことかよ、じゃない!何なの、あれ!つきあってるとか、部室でヤってるとか、冗談じゃない!」
「単なる噂だろ。信じちゃいねぇよ」
「信じてる!少なくても、この学校の生徒のほとんどがね!」
決して少なくないその人数を表すかのように、莉子は大きく腕を広げた。
「あんたがひとこと、否定すれば済む話でしょ!」
が信じてないんだから、問題はねぇんだよ」

尾鰭が付いたように大きくなった噂に、跡部自身ウンザリしている。
最初のうちは否定していたものの、今となっては、それも焼け石に水でしかない。
人の噂など、放っておけば勝手に消えていくものだ。
2人で話すたびに騒ぎ出す女たちや、興味本位に部室を覗きに来る男たちも、煩わしい以外の何者でもない。
一緒にいるはずのテニス部の面々さえ、馬鹿げた噂話を信じている者さえいる。
だが、どうでもいいことだ。
跡部にとって大事なのは、その他大勢ではない。
さえ信じていてくれれば、そんな噂も周囲の騒ぎも、何の問題にもならない。

「信じる、信じないは別として、あんな噂聞いて、が傷付かないとでも思ってんの!?」
「ア?」
跡部の視線が鋭くなる。
「馬鹿じゃないの!真実はどうでも、他の女と寝てるなんて噂聞いて、気にしないわけないでしょ!」
まるで自分のことのように怒る莉子の姿に、にもこんな友人がいるのかと、跡部は嬉しくなる。
だが、その反面、煩わしさを感じるのも嘘ではない。
莉子の言うことなど、跡部はとっくに判っている。
このバカバカしすぎる噂に、が傷付き、不安を感じていることくらい、当に気付いている。
だからこそ、2人だけのときは、思いっきりを甘やかし、抱きしめ、熱い想いを送り続ける。
噂など関係ない。今ここにある現実だけが、真実なのだと。
「……」
「何とか言え!あんたは、に本気で惚れてるんじゃなかったの!?」
大きな溜息をつき、跡部は莉子を見た。
本気で惚れているのか、否か。その答えは、跡部自身、大声で叫びたいほど、明確だ。
「跡部景吾!」
「仕方ねぇだろ。今、部内で揉め事を起こすわけにはいかねぇんだから」
「え…?」
「お前だってバレー部で上を狙ってんだろ?大事なこの時期、部内の士気を下げるわけにはいかねぇんだよ」
亜樹との関係をはっきりと示せば、の不安はなくなるのだろう。
だが、それと同時に、亜樹は不機嫌になり、部内の雰囲気も悪くなる。
数多くいる部員の中には、亜樹を頼り、信頼し、大切な仲間だと信じている者は、決して少なくないのだから。
選手のトップに立つ部長の跡部と、彼らを支えるマネージャーのトップに立つ亜樹。
そんな2人の不仲は、どうしても影響してくるのだ。

「あんた…、テニス部のために、この噂を放っておいてるの?」
「俺ら3年にとっちゃこれが最後だし、くだらねぇことで、チームの結束を崩すわけにはいかねぇだろ」
「そのために、を傷付けても?」
「…あいつは解ってる。俺にとっても最後になるこの大会に、俺がどれだけ力入れてんのか」
「最後、って…」
「テニスは高校までだ。大学に行ってまで本気でテニスをできるほど、俺は暇じゃねぇんだよ」
「……」
確かにそうだろう。莉子にも想像できる。
跡部が高校でテニスを辞める理由も、その最後の大会に対する彼の意気込みも。
「でも、それとのことは、別問題でしょ!」
「…テニスは高校限りだ。とは、一生続く」
「一生…って」
「ここで後悔を残すのは、俺らの総意じゃねぇ」


私たちは真剣に生きている。「たかが高校生の」と、大人たちが言おうと、それでもこの恋は、真剣だ。

それでも、跡部の口から出た「一生」は、莉子を驚かせた。
小さな子供のおままごとでも、幼い初恋の淡い約束でもない。
それでも、高校生の私たちが交わす「一生」に、それほどの現実が含まれていないことを、私たちは本能で知っている。
だが、跡部の言う「一生」は、確実に、遠い未来までも約束するような、そんな「一生」に聞こえた。

「文句なら、全国の後にいくらでも聞いてやる」
そう言って出て行った跡部に、莉子はこれ以上、何も言うべき言葉が見つからなかった。



「ファイトッ!景吾!」
ボールを追う跡部に声を掛けるのは、洗いたての綺麗なタオルと、冷たいドリンクを脇に準備する、亜樹。
自分が彼の名前を呼ぶたびに、周囲から注がれる視線が、気持ちいい。
何かを納得するような部員たちの視線も、嫉妬で射貫かれるような女たちの視線も。
見て!あれが、私の男。あんたたちが恋焦がれる男は、私のもの。
そんな現実を見せ付けるように、亜樹は跡部だけに視線を送り続ける。

つきあってる。
そんな噂が立ち始めたのは、亜樹にとっては好都合だった。
それに尾鰭をつけるのに、そんなに時間はかからなかった。
真実はどうかなど、今は関係ない。真実など、後から付いてくれば、問題はない。
不確かな存在の「お姫さま」なんてどうでもいい。
今、大事なのは、この噂に跡部自身が、何の異も唱えないということだ。
亜樹にも、周囲にも、その「お姫さま」にも。
今や、学園中で亜樹と跡部の関係を疑う者はいないだろう。

ようやく、軌道修正された、私と景吾の関係。
そう、順調に前に進んでる。私が望む未来に向けて。
「景吾、お疲れさま!」
「あぁ」
タオルとドリンクを受け取る、跡部景吾の手。
この手が近い将来、繋がれるのは、間違いなく私の手。




綺麗なガラス皿に並べられたチョコレートを、跡部の長く、綺麗な指が摘む。
腕の中で本を読む彼女の前に差し出せば、それは静かに彼女の口の中へと消えていく。
「…美味しい」
指に付いたチョコレートを舐め、「甘ぇ…」と呟く跡部に、はクスクスと笑い声を漏らす。
「だから自分で取るって言ってるのに」
「いいんだよ。お前の手は本で塞がれてんだろ?」
この甘いチョコを食べた彼女の身体は、きっとどこもかしこも甘いのだろう。
そんな甘すぎる想像を確かめるように、跡部はの頭頂部に唇を寄せる。
そこから香るのは、微かなチョコの匂いと、誘うようなシャンプーの匂い。
指先を髪に絡めれば、白い項が姿を現し、跡部はまるで吸い寄せられるようにそこにも唇を寄せる。
「くすぐったい」
「ア?本、読んでろよ」
「そんなの、できない」
身を捩るように肩を揺らすに、跡部はなおも唇を与え続ける。
「本が読めないじゃない…」
「なら、読まなきゃいい」
の手から本を取り上げ、自分より小さなその手を、そのまま包み込む。
「ん…っ」
首筋に、肩に、耳元に、頬に、髪に。跡部は自分の唇が届く場所すべてに、唇を寄せていく。
そうしてすべてを味わった後、次の場所を追い求めるために、の身体を反転させる。
既に潤んだ表情で自分を見つめるの瞳は、跡部だけを映している。
「チョコが欲しいか?」
「もう、本はないのに?自分で取れるけど?」
「知ってる」
長い腕を伸ばし、カカオの馨りを放つチョコレートを取り、の口へと運んでやる。
そのまま指をの唇に押し付ければ、今度はがその指に舌を這わす。そこに付いたチョコを舐め取るように。
「俺の指に付いたチョコまで、欲しいのかよ。食い意地のはった奴だな」
「…ん、欲しいのは、チョコだけじゃないもん」
もうチョコなど残っていない跡部の指を、はそれでも舐め続ける。
「本当に食い意地のはった奴だな」
嬉しそうに、親指での唇をなぞり、今度はそこに自分の唇を寄せる。
が欲しいものを、与えるために。

「…っはぁ」
息が乱れるほど長いキスの後、跡部はの洋服に手を掛け始める。
「好きなだけ食えよ。お前のもんだ」
「食べ過ぎて、おなか壊しちゃうかも」
自分の服を脱がし始めた跡部の手が動きやすいように、は身体を動かし、誘う。
「そん時は、優しく看病してやるよ」
ニヤっと笑い、跡部はさらに手を進めていく。服の中に隠された、その素肌を求めて。

馬鹿げた噂など、どうでもいい。
大事なのは、今こうして、が側にいるという現実。
この腕の中にさえ彼女がいれば、その傷も、不安も、すべてこの手で癒してやれる。







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