7月
懐かしい姿を見た。
それはこの茹だるような熱さが見せる幻でも、この時期に天国へ逝った母の見せる夢でもない。
その姿を見た途端、私は、溢れ出る涙を抑えることができなかった。
「何で…、ここにいるの?」」
強く抱きしめられた腕の中に、懐かしい母の姿を見た気が来た。
「元気そうダネ、でイイのかな?」
「もちろん!」
ホテルのラウンジで、制服姿の女子高生と、碧眼金髪の男性が話す光景は、異様に映る。
少しだけ銀髪の混じった、ロマンスグレーとも言えるその男性は、まるで愛しい娘を見つめるかのように、優しげな笑みをたたえている。
対する女子高校生も、父親に接するように、その表情は愛情に溢れている。
だが、この2人は、もちろん親子ではない。
どこから見ても純粋な日本人と、青い瞳の日本ではない海の向こうの血を持つ男性。
この2人の間にあるのは、血の繋がりではなく、懐かしく、愛おしい、共通の思い出だ。
「君とのヤクソクは、きちんと守っているヨ。彼女は今も、花の中で眠っているカラ」
「ありがとう。親不孝な娘を、ママは怒ってるかな」
「そんなことはナイさ。彼女は心から君をアイシテイル。このボクさえも敵わないほどにネ」
どこか少しだけイントネーションがおかしい、懐かしいニホンゴ。もう何年も聞いていない彼の『日本語』が、は、どこかくすぐったかった。
懐かしいこの人と、こうして会話できることが、何よりも嬉しかった。
「でも、どうしたの?突然日本に来るなんて」
「君に会いに来たんだヨ、」
「え…?」
「…パパと、シアワセに暮らしているんだと思っていたのに」
「……」
3年前、LA国際空港のゲートで別れて以来、会うのはこれが最初。手紙のやりとりさえ交わしていない。
彼はきっと信じていたはず。が日本へ帰るのは、たった1人の肉親である父親に愛されるためだと。
だって信じていたのだ。会ったこともない父親は、亡くなった母のように、自分を愛してくれるのだと。
「ハイスクールは、楽しいカイ?」
の制服に目を留め、優しげに問う。
「もちろん」
「…カレッジは、どうするんだい?」
「大学は、行かないの。学びたいこともないし」
「…君のパパに会ったヨ」
「え?」
彼ははっきりと口にした。
それでも思わず聞き返してしまうほど、彼の言葉は衝撃的だった。
「何で…?」
「ニッポンに来て、君のパパという男に会って、君に会いに来た。それでも君は、本当にシアワセだと言える?」
「…それでも、よ。私は、幸せ」
彼が父に会ったということは、既にの環境は調べている、ということだ。
抜け目のないビジネスマンである彼が、それを抜かるはずなどない。
「あんなパパでも?」
「…21になれば、その縁も切れる」
「彼女のイサン、か」
彼の言葉に、は大きく頷いた。
決して多くはない、母の遺産。
それでも、愛する母が遺してくれたものを受け取る日まで、あの父親と諍いを起こすつもりはない。
「…彼女は、最高のレディだった」
「うん。最高のママだった」
視線を合わせ、微笑み合う2人の間にあるのは、紛れもなく、1人の女性に捧げられた、愛情だ。
「男運はなかったケドネ」
「でも、あなたと出会った」
「そう…。そして、シアワセな未来を前に、天国へ逝ってしまった」
「それでもママは、幸せだった。最期にあなたに愛されたんだから」
「君という最高のベビーもいたしネ」
若くして、病気という運命に、その命を奪われた母。
恋に奔放に生き、数々の男が通り過ぎていったのを、も知っている。
美しく、自由で、優秀なビジネスウーマンだった母は、恋に関してだけは、臆病だった。
未婚のままにを産み、たった1人で育ててきた。
それはきっと大変な苦労だったと、一番近くにいたには解る。
それでも、母はを邪魔にすることはなかったし、この世で一番の愛情を注いでくれた。
父親という存在を感じたことはなかった。それでも、には母がいれば、それで充分だったのだ。
どんなにデートをしても、プロポーズされても、母は、結婚しようとはしなかった。
「のせいなの?」と聞いたことがある。
その時母は、にっこり笑って、こう答えたのだ。「そうよ。との生活を邪魔する男なんて、必要ないもの」と。
そんな母が、ようやく見つけた相手。
2人だけだった生活に、初めて入り込んできた、男という存在。
デートをしても、娘を会わせても、決して踏み込ませなかった家に入ることを許した存在。
それは、母の人生で初めての、愛だったのかもしれない。
「ママのウエディングドレス姿、見たかったな」
「きっとママも、君のウエディングドレスを見たかったんじゃないカナ」
愛する男性にプロポーズされ、幸せの絶頂の中で、その命を落とした、ひとりの女性。
それは悲劇なのか、幸せなのか。
それでも、「私、世界で一番の幸せ者だわ」という言葉を遺して、彼女は逝った。
「…ちゃんとに結婚したわけでも、Adoption(養子縁組)したわけでもナイけど、僕は君のパパだと思ってるんだヨ」
「うん。ありがとう」
もう3年も前になくなった恋人の娘を、未だに娘だと言ってくれる、そんな心が、は泣きたいほど嬉しかった。
本当の父親は、娘だとすら思っていない。彼にとっては、過去から這い出してきた邪魔者にしか過ぎないのだろう。
「、君をアイシテル。本当のムスメのようにネ」
「私も。あなたはパパで、家族で、親友だもの」
『…一緒に暮らさないか?』
「え…?」
奇妙なイントネーションの日本語ではない、彼の母国語である英語で、男は言った。
『もちろん、君がハイスクールを卒業してから。前のように、一緒に暮らそう?ママの近くで』
『そんなこと…、あの人が許すはずない』
母親の墓参りにさえ、行かせてもらえなかったのだ。
遠い異国の地で、が暮らすことなど、保護者である父親が許すはずなどなかった。
『あの男の許可は、もう取った』
「え?」
『君の生活に関する費用を全部出す。もちろん今までにかかった分も。そう言ったら、彼はすぐにイエスと言ったよ』
まるで嫌なものを思い出すように、男はその言葉を吐き出した。
『どうする?あとは、君次第だ』
『そんなことまでしてもらうなんて、できない。ママの治療費だって、返せないのに…』
『そんな必要はない、』
突然の病に倒れた母と、どうしたらいいのか分からない娘。
そんな母娘に手を差し伸べてくれたのが、この男だ。最高の治療と、それに伴う費用の一切を、この男が用意してくれた。
そのおかげでは、残り少ない時間を、煩わしい問題に悩まされることなく、母のためだけに過ごすことができたのだ。
『でも…』
『もともとそうするつもりだったんだ。3年前、君のパパという人物が現れなければ、僕はそうするつもりだった』
『……』
『君のたった一人のパパだと、諦めたのがミスだったんだ。どんな方法を使っても、君を手放すべきじゃなかったのかもしれない』
優しい瞳の奥には、強い怒りが潜んでいる。
『まだ時間はある。僕は明日帰るけど、ゆっくり考えて』
「うん…」
『ハイスクールを卒業するまでに、返事を』
『解った。ありがとう』
「君に会えて、ヨカッタ」
頬に贈られるキスも、ハグも、まるで本当の父親のように、優しかった。
どうしよう…。
電話を前に、はどうすればいいのか、全く解らなかった。
懐かしい再会から1週間後、何も言えないまま、跡部は合宿のために、この東京の地を離れてしまった。
この衝撃的な再会を、伝えるべきなのか、否か。
遠く離れた場所で、彼は今、テニスだけに打ち込んでいる。
全国というコートを目指して、彼の言う「最後のテニス」で勝つために。
正直、話したいと思う気持ちはある。
どうすればいいのか判らない。この突然の申し出を受けるべきなのか。
母が眠る場所に生きてみたい、という欲求はある。
母が死んでから3年、飛行機に乗ったあの日から、母を訊ねたことは、1度としてないのだから。
でも、それと同時に、この場所を離れたくない。彼がいる、この土地を。
高校を卒業したら…。
一緒にいられないだろう彼に、卒業後の生き方を相談するのは、意味があるのだろうか。
服の中に隠れた、一粒の真珠を、はぎゅっと握り締めた。
思い出を糧に生きるためには、新しい生活が必要なのかもしれない。
「今日の練習はこれまで!」
跡部の言葉に、次々と部員達が座り込む。
夏の熱気ときつい練習は、彼らを汗と埃塗れにする。
息を切らし、へばり込む部員たちの顔を、部長として、跡部は見回す。
そこにあるのは、共に戦っている、仲間たち。
頂点への道。
個人戦という道がないわけではなかった。
それでも敢えて、個人戦を他に譲ってまで、団体戦で臨むことを決めたのは、跡部の決意だ。
個人の頂点では意味がない。今まで共に戦ってきた仲間との勝利が欲しかった。
彼が欲しいのは、シングルスの頂点ではない。氷帝学園高等部としての、勝利だった。