8月



歓声に包まれるのは、東京の地を遠く離れた、高校総体の会場。
この、ある意味アウェイとも呼べるこの場所でも、「氷帝」のコールは鳴り止まない。
真っ白なシャツに、紺地のベスト、赤いタイ。胸に光るのは、帝王の頂。
このインターハイに進んだ男子テニス部のために、応援席は氷帝の生徒で埋め尽くされている。

そんな応援席から少し離れ、豆粒ほどにしか見えないその場所で、はテニスコートを眺めていた。
あの大勢の氷帝生の中に混じり、一番前で応援したい気持ちはある。
それでも、にはここで充分だった。
例え豆粒だろうと、跡部の姿なら、見分けられる気がしていた。
?」
「…忍足君」
「何や、来てたんか。もう試合は終わったで?」
「うん、見てた」
「こないなところからか?」
の立つ場所から見える小さなコートに、忍足は目を細める。
「ちゃんと忍足君の活躍も見てたよ」
「そりゃどうもおおきに」
ふざけたように頭を下げた忍足に、も同じように、「どういたしまして」と、頭を下げた。
「こんなとこにおんでも、皆のとこに来たらええやん。も仲間なんやし」
「元、ね。いいの、ここで。充分」
「……」
既に試合の終わったコートを長めるの顔は、忍足にはどこか寂しげに見えた。

「あ、そうだ。忍足君、ひとつお願いがあるんだけど」
「何や?」
「…これ、渡してくれないかな?」
の手の中に在るのは、一粒の真珠が光る、金のチェーンのネックレス。
「……真珠?」
「そう、お守りにもならないかもしれないけど」
「それは構へんけど…」
「誰に?」 そう聞こうとして、忍足は止めた。の表情は、もうすべてを知っているものだった。
「お願いできる?」
「まかしとき!」
小さな真珠のネックレスをしっかりと手の中に収め、お遣いを頼まれた忍足は、胸を叩き、請け負った。




「どうしよう、…。すごいよ…」
「うん…」
溢れ出そうになる涙を、押さえ切れそうにない。
隣に座る親切な友人は、ダブルスの試合最中から、既に泣き通しだ。
「ヤバイ。跡部君がかっこよく見えてきたよ…」
「うん…」
最高にかっこいい男。
センターコートで、氷帝勝利を背に、汗だくになりながら、ボールを追い続ける、最高な男が、ここにいる。

親切でお節介な友人に連れられ、が座るのは、応援席の一番前。
は誰よりも、ここにいなきゃいけないでしょ!」
そんな強引な説得をしてくれた莉子に、は今、心から感謝している。
いくつか隣に座る亜樹も関係ない。
の視線は、ただ一心に、コートで戦う、跡部景吾に注がれていた。

バンとボールが跳ね返り、会場は沈黙に包まれる。
線審の手が、下に真っ直ぐ伸びる。
その瞬間、会場内は、歓声に包まれた。
「ゲームセット!ウォン・バイ・氷帝学園、跡部!」
高らかに宣言された、主審の声も、歓声の中に消えていった。



「男子団体、優勝。東京、氷帝学園」
一礼をし、敵チームと握手を交わす。
跡部の右手が大きく挙がり、ぎゅっと握られた拳が、その勝利を宣言する。
そんな合図をきっかけに、会場内は再び、歓声の渦となる。

「すごいよ!。優勝だよ!全国優勝!」
「うん…」
溢れ出す涙を抑えることは、もうできない。
も、莉子も、涙でグチャグチャの顔で、全国一となった男たちを見ていた。


「忍足、もういいよな?」
「何のことや?」
歓声の中にいる跡部の問いかけに、忍足は涙交じりの声で答える。
「ダブルスも、シングルスも、もう、崩れねぇよな?」
跡部の視線が注がれるものに気付き、忍足は大きく頷いた。
「あぁ、もうええ。好きにしぃ」

歓声に湧くコートを、跡部が歩く。
彼が向かうのは、自分たちを応援してくれた、氷帝生たちがいる、観客席。
更に大きくなる歓声も、跡部の耳には届いていない。
彼が目指すのは、ただひとつ。

「え…?」
真っ直ぐ、自分のところへ来ているのだと、亜樹は、そう思っていた。
だが、真っ直ぐと、何の迷いもなく歩いた跡部が止まった、その目の前には、
その隣にいた莉子以上に、亜樹は驚きを隠せない。

「何、泣いてんだよ」
「…感動しちゃった」
「当たり前だろ」
得意げな彼は、やっぱり、跡部景吾だ。
「効いたぜ、このお守り」
「そんなの…」
首を横に振るの目の前で、跡部は自分の首から真珠のついたネックレスを外し、の目の前に差し出した。
静かに、自分の手に戻ってきた真珠を受け取るには、跡部しか見えていない。
嬉しそうな莉子の姿も、驚愕に目を見開く亜樹の姿も、会場中から注がれる視線も、何もかもが見えていなかった。
「もう、いいよな?」
問われたは、ゆっくりと頷く。
差し出された両手をしっかりと握り締め、は跡部に、勝利のキスを贈った。


甲高く鳴り響く悲鳴も、耳を覆いたくなるほどのざわめきも、すべて、遠い世界の出来事だ。
涙を溜めながら、頬を染めると、満足げに微笑む跡部にとっては、何もかもが、どうでも良いことだった。



ねぇ、ママ。いいよね?
今までずっと、ママが残してくれたものを、この手に握り締めたかった。
でも、いいよね?
ママが残してくれたのは、お金なんかじゃないもの。
ね、知ってる?この人、跡部景吾っていうの。私の大好きな人。
彼はテニスが大好きで、夢中で走ってきた。私はそれほど夢中になれる何かを知らない。
でも、彼が走り続けてきたゴールに立っているのに、私がつまらない意地を張るなんて、おかしいでしょ。
ママの遺産とか、これからのこととか、考えなきゃいけないことはいっぱいあったけど、
でも、この誇らしげな人の前で、嘘をつくことはしたくなかったの。

ねぇ、ママ。ママの初恋は、どんなだった?
私は人生初めての、すっごい恋をしているの。

だがら、いいよね? ママ。





「景吾、どういうこと!」
「亜樹…」
ホテルに戻り、夕食を終え、その場で追い詰めたのは、亜樹の方からだった。
「何なの!あれ。ちゃんと説明してよ!」
部長とマネージャーの言い争いに、食堂中の仲間たちが注目している。
「景吾!」
「亜樹、今はそんなことに構ってるときじゃねぇだろ」
「そんなことって…、ちゃんと説明してよ!」
「インハイが終わったらな。今は、マネージャーとして、他に考えるべきことがあんだろ」
しがみつく亜樹の手を強引に払い、跡部は食堂を後にする。
残された亜樹は、放された手をぎゅっと握り、食堂から走り去った。

「跡部、ひと騒動くるぜ?」
「解ってる。でも、まずは明日のダブルスだ。宍戸、ぬかるんじゃねぇぞ」
「解ってるって、部長殿。それにしても、、ねぇ…」
「めちゃお似合いやと思わへん?」
「まぁ…、そうかもな」
跡部景吾と。はっきり言ってしまえば、考えられない組み合わせ。
だが、あのテニスコートでの2人を見てしまえば、宍戸にも、忍足の言うように、「お似合いだ」と思わざるを得ない。
笑みを交わす姿も、勝利のキスも、何もかもが自然に見えてしまったのだから。



「お父様!の送金、取りやめて!学校、辞めさせて!」
独り戻った部屋で、亜樹の口から飛び出すのは、悲鳴にも似た父親へのおねだりだ。
「亜樹…」
例え血は繋がっていなくても、彼にとって亜樹は、自分の血を分けた娘以上に愛しい存在だ。
いや、彼の中では、血を分けた娘などいない。
彼にいるのは、血だけを分けた、ただの他人だ。
かわいい、愛しい、娘の願い…。
彼は父親だった。愛しい娘の願いを叶えることが、彼の父親としての生き甲斐だったのかもしれない。







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