9月



昨日まで当たり前だったことが、突然なくなる。
そんな現実がある。
例えば、大好きだったおもちゃが、突然動かなくなってしまったり、
例えば、毎日聞いていたラジオ番組の、突然の終了を知らされたり、
例えば、いつも聞いていたあの声が、突然遠くへ行ってしまったり。
形あるものは必ずなくなると、人は言うけれど、それを怖がる私は、子供なのだろうか。
大切なものが壊れてしまうその前に、自らそれを手離してしまう私は、やはり子供なのだろう。





9月最初の登校日、高校生活最後の夏休みを終えた教室には、足りないものがあった。

「あー、突然だが、は家庭の都合で引っ越すことになった。皆に宜しくとのことだ」
朝一番のH.R.の冒頭、そんな担任のひとことで、彼女はこの氷帝学園から姿を消した。


「跡部!どうなってんのよ!」
「知るかよ!俺が聞きてぇくらいだ!」
登校しないに疑問を感じれば、担任から告げられた引越しの事実。
それは、跡部を、唐突に混乱の渦に落とした。
担任の制止も聞かず、隣の教室に飛び込めば、同じように何も知らない莉子がいた。
跡部と、莉子と、彼らにくっついてきた忍足やジローも、やはり混乱の渦の中にいた。

生徒1人が突然いなくなったことなど、何の関係もないかのように、学園では授業が始まる。
静かで、平和な、いつも通りの日常が、そこにはあるだけだ。
だが4人は、そんな日常を飛び出し、学園から遠ざかる車の中にいた。
「お客様のお掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって…」
そんな機械的なアナウンスを、もう何度聞いたか解らない。
それでも跡部は、走る車の中で何度も携帯電話に耳を当て続けた。
そうすれば、何回目かには必ず、彼の良く知る声が聞こえてくるような気がして。
「何で…」
呆然とする莉子を支えるジローも、厳しい表情の忍足も、跡部自身でさえも気が付いている。
何度電話を掛けても、その先に彼女はいないことを。

車が止まった途端、運転手がドアを開けるのも待てずに、跡部は飛び出していた。
カンカンと響くこの階段を何度も昇った。
音が響くこの質素な造りの階段を、できるだけ静かに、リズム良く、何度も昇った。
だが、今日の跡部は周囲に響く音など、気にしていられなかった。
大きな音を立て、一段飛ばし、勢い良く駆け上がる。
後ろに続く者たちも、それに続くように、大きな音を立て、駆け上る。

質素な造りの、極々一般的なアパートの扉。
その前に辿り着いた彼らの息は、こんな短い距離を走っただけだというのに、ひどく乱れていた。

「跡部…」
「あぁ」
忍足の不安げな声に後押しされ、ドアノブに手を掛ければ、それはカチャと音を立て、静かに開いた。
午前9時。静かな住宅街の中で、その音だけが奇妙に響いていた。




「何も知らないもんっ!」
その膨れた頬も、こぼれないように溜まっている涙も、すべてが白々しく思えた。
何もかもが作り事にしか見えず、何もかもが嘘に思える。
「知らねぇはずねぇだろ!の父親はお前の父親だろ!」
その事実を知っていた跡部に驚く亜樹の表情さえも、跡部には作り事のように思えた。

アパートは、ものけの空だった。
そこにあったはずのベッドも、小さなテーブルも、テレビも、クッションも、何もかもがなかった。
何度も料理を作り出した狭いキッチンは、きれいに掃除され、あんなにあった調理用具は何ひとつなかった。
ふざけあったリビングも、「狭い」と文句を言い続けたバスルームも、
そこに誰も生活していないことを証明するかのように、きれいに、何もなかった。

教師を問い詰めれば、退学の手続きはすべて済み、どこへ引っ越したかさえ知らないと言う。
非常時の連絡先には、弁護士の名が書かれた名刺一枚が残されていた。

「本当に何も知らないんだから!」
電話も、アパートも、教師も、すべての道を失った彼らに残されていたのが、亜樹だった。
休み時間に亜樹を呼び出し、こうして部室で問い詰めても、彼女の答えはずっと一緒だ。
知らない。
そんはずはないと追い詰める跡部にも、亜樹の答えは変わらない。
「しらばっくれんな!お前がにしたこと、俺が知らないとでも思ってんのか!」
「知らない!あの子が何言ったか知らないけど、私は何も知らないもん!」
バンッと、形が変わるほど叩かれたロッカーの音に、亜樹が身体を竦める。
「…くそっ!」
は何も言っていない。
亜樹との関係も、亜樹にされたことも、この突然の引越しのことさえも、何ひとつ言っていない。
その事実が、跡部は苦しかった。
「…っ、本当だもん。お父様は亜樹だけのお父様だもん」
の父親でもあるだろ!」
「違うもん!もう縁は切ったの!お父様とあの子は、もう何の関係もない!」
何の関係もないはずなどない。確かには、亜樹の父親の娘なのだから。
それでも、縁は切られたという。跡部が確認したときには、保護者の欄にその名前はあった。
その縁さえも、おそらく切られたのだろう。
「落ち着きぃ、跡部」
「これが落ち着いていられるかよ!」
「せやかて、責めた所で何も始まらんやろ」

「侑士ぃ…」
怒りに震える跡部を宥めるように声を掛けた忍足に、亜樹が救いの眼差しを向ける。
だが、怒りを感じているのは跡部だけではない。忍足もまた、同じだった。
甘えるように手を伸ばす亜樹を一掃し、忍足はいつもの優しい瞳とは違う、冷たい表情で亜樹を見下ろした。
「侑士?」
「亜樹。お前さん、がいなくなるの、知ってたんやろ?」
「……」
ばつが悪そうに視線を逸らした亜樹の態度が、その答えを物語っていた。
「亜樹、ええ加減にし。俺らがお前さんに何も言わなかったんは、それでも仲間やと思ってたからや」

「亜樹。これ以上、俺らにお前さんを嫌いにさせんといてくれや」

「……っ!だって!が悪いのよ。私だけのお父様だったのに、突然現れて、娘だなんて…っ」
小さいころから、優しくて、大好きな父親だった。
たとえ血は繋がっていなくても、顔も思い出せない父親より、ずっと、ずっと大切な父親だった。
「お父様だって、迷惑してたもん。お父様も、お母様も、皆、が邪魔だった!」
幸せで、温かくて、何の問題もなかった家族に、突然現れた「娘」という存在。
それはただ邪魔なだけで、どんな責任があっても、義務があっても、関係なかった。
「それに…っ、あの子は、景吾まで奪った!」

悲痛なほどに叫ぶ亜樹の姿は、跡部や忍足が知っている彼女ではなかった。
「お父様を困らせて、私の場所まで奪って…!全部あいつが悪いんだから!」

「…そうじゃねぇだろ。母親を亡くして、たった独りで東京に来て、そんなあいつに居場所をやらなかったのは、お前らだろ」

跡部の悲痛な声が、男子テニス部の部室の中で響いていた。
顔を真っ赤にし、それまでに見せたことのない顔で自分の感情を顕わにする亜樹と、
仲間の切なげな声に、その表情を歪める忍足と、
何もできない自分の歯痒さに、固く拳を握り締める跡部だけが、

そこにいた。



大声を出し泣き続ける莉子に、ジローはどうしていいのか解らない。
突然引っ越してしまったと仲がいいのは知っていた。
それでも、彼女が突然消えた理由も原因も判らないジローは、ただ震える莉子を抱きしめることしかできなかった。
跡部が懸命になる理由も、今日、初めて知った。
その理由を知っていただろう忍足も、険しい表情をしている。
今まで自分に隠されていたその事実を、責める気にはなれなかった。
それほどまでに、跡部も、忍足も、莉子も、悲しみの中にいたのだから。



まるで遠い世界の出来事のように、莉子の泣き声が響いている。
何も知らないと言った亜樹も、跡部には、もう、どうでも良かった。
何ひとつ残っていなかった、のアパート。
そこで過ごした時間までも、すべてがなかったことのように、そこには何もなかった。
それはまるで、これまでの記憶さえも否定されているようで、自分の想いさえも否定されているようで。

はいなくなった。
何も残さず、その身ひとつでいなくなってしまった。
あんなにたくさんあったものは、彼女がすべて持って行ったのか。
それともすべて、捨てていってしまったのか。
彼女に贈った真珠のネックレスを胸に、全国優勝という夢をこの手に掴んだのは、ほんの数日前の出来事だというのに。
彼女の胸元に輝く真珠に戯れ、キスを贈り続けたのは昨日のことだというのに。

昨日までは当たり前だった。
がいて、微笑みかけて、その笑みにあたたかさを感じる、優しい時間が。

跡部の左手は、自然と自分の胸元を探っていた。
だが、いくら探しても、そこには何もない。
皺ができるほど握り締めた制服の奥には、彼女が残していった甘い記憶だけが、残っていた。








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