知っているのは、細くて長い、彼の指。
右上がりに癖のある、彼の文字。
少し低めな、彼の声。彼が読んだ本。
何度も心の中で繰り返す、彼の名前。
それだけ。



図書館の恋



静かな図書室のカウンター。金曜日の放課後。ここが私の場所だ。私と彼を繋ぐ、唯一の場所。
「お願いします」と、彼が言う。差し出された本を受け取り、貸し出しの手続きをする。
返却日を伝え、彼の手に本を返す。彼はいつも必ず、「ありがとう」と言う。
それだけ。

だから私が知っているのは、本に添えられた彼の指と、貸し出しカードに書かれた彼の文字、彼の名前。
「お願いします」と、「ありがとう」だけの、彼の声。
顔を上げることが出来ない私は、彼がどんな表情でカウンターの前に立っているのか、一度も見たことがない。
「お願いします」が無表情なのか、「ありがとう」が笑顔なのか、それさえも知らない。
私の視界に映るのは、彼がこれから読む本と、そこに添えられた貸し出しカード。彼の手。
私が知っているのは、それだけ。
だから、何度も心の中で彼の名前を呟く。「お願いします」と「ありがとう」を、何度も思い出す。
そうして私は、彼が読んだ本をなぞる旅を続けている。

テニスの専門誌や、推理小説。レポートの資料本に、伝記本。
そして、恋愛小説。
彼が読んだ恋愛小説を読むたびに、私はドキドキしてしまう。胸がときめいて、頬が熱くなって、不整脈を起こしてる。
ハッピーエンドに終われば、幸せな気持ちのまま、夢の中に落ちていくことが出来る。
悲恋ものだったりすれば、涙を零しながら本を閉じ、濡れた枕で眠りに就くことになる。
他のどんな恋愛小説を読んだって、こんなふうにはならない。
まるで自分のことのように感情を揺さぶられるのは、それが彼の読んだ本だから。
私の頭の中では、主人公の姿は、彼と私の姿になっている。
ろくに会話をしたこともない。それどころか、きちんと顔を見たことさえないというのに、私は本の中で、彼と恋愛をしている。
どうしようもない、妄想。
自分でも呆れるけど、それでも恋愛小説の表紙を開けば、私の中でそれは、彼との物語になってしまう。

本当に馬鹿みたい。
それでもこれは、きっと恋なんだと思う。
私の中だけで生まれて、始まって、そして、いつの日か、消えていく、私だけの、恋。



さん、後はよろしくね」
「分かりました」
司書の先生に鍵を渡され、私はカウンターに座る。
毎週金曜日の放課後。それが図書委員である私に課せられた仕事だ。
返却は専用のボックスがある。だから私は、こうして貸し出しカウンターに座り、放課後の図書室を訪れる生徒達の相手をする。
相手と言っても、その殆どは、貸し出しの受付だけ。
調べたいものがあれば、パソコンがあるし、難しい相談になれば、職員室にいる先生を呼べばいい。
金曜日の放課後など、図書室に本を借りに来る人は少ない。
皆、長い1週間が終わった後は、さっさと学校を飛び出していく。部活に励んでいる。
静かな図書室にいるのは、数少ない、週末を本と一緒に過ごそうという生徒達だけだ。
貸し出しの合間に、返却された本を確認し、本棚へと戻していく。
そんな単調な時間が、静かな図書室の中で、ゆっくりと過ぎていくだけ。


「お願いします」

ドキンと、心臓が撥ねる。ホラ、不整脈だ。異常だ。
顔を見なくても、すぐに誰だか判ってしまう。
差し出された貸し出しカードの名前を見れば…、あぁ、私の病は、かなり重症だ。
たったひとことの言葉だけで、カウンターの前に立つ人物を当ててしまうなんて。
「返却期限は、来週の金曜日になります」
これもお決まりの台詞。他の人と同じように、私はこう言うだけ。多分私は、彼にこの言葉しか発していないような気がする。
「ありがとう」
差し出した本を彼が受け取って…。何度だって繰り返した行為なのに、指が触れ合うなんていう偶然は、一度も起きたことがない。
他の人とはあるのに。
神様は意地悪だ。ほんの些細な偶然さえ、私には与えてくれない。

彼の足音が遠ざかって、図書室の扉の音がする。
そうしてようやく、私は大きく息を吐き、顔を上げることが出来る。
彼がもう、この図書室を出て行ったことは知っているのに、ゆっくりと室内を見回して、いないはずの姿を探してしまう。
彼がいたことは、やっぱり一度もないけど。

もう何度こうして、彼の姿を探したんだろう。
4月に図書委員になって、こうして金曜日の放課後にここにいて、もう、夏休みも間近だ。
その間交わした言葉は、

「お願いします」
「返却期限は、来週の金曜日です」
「ありがとう」

これだけ。
なんて短い会話。
挨拶を交わしたことも、ちょっとしたおしゃべりをしたこともない。
顔を見たことすらないんだから、おしゃべりなんて、遠すぎる夢だけど。
きっと彼は、私の名前も知らない。顔も知らない。学年も、クラスも、何ひとつ知らないだろう。
この短すぎるやりとりに、私がどんなに緊張しているか。ドキドキしているか。彼は、何ひとつ知らない。
私が知っているのは、彼の文字で書かれた、彼の名前。読んだ本。綺麗な手と長い指。

それだけ。

でも、本当はもっと知ってる。いろんなことを。
彼のクラスも、成績も、部活も、その華々しい活躍も。
身長が何センチだとか、好きな食べ物は何だとか、趣味は何だとか、女の子の好みはどんなだとか、たくさん。
彼は有名人だから、私が知ろうとしなくても、そんな噂は自然と耳に入ってくる。
遠くから見た彼の背の高さも知ってる。細身なのに、すごく力強い球を打つこととか、テニス部の仲間とすごく仲がいいこととか。
写真で見た彼の笑顔も知ってる。真剣に試合に望む彼の姿も、写真で見た。
でも私は、全部知らないふりをする。私が知っているのは、図書室のカウンター越しの、短いやりとりの彼だけ。
それでいい。
だって、私が知っているの「本物」は、それだけだから。
噂も、他の女の子達が話すことも、写真も、ぜんぶ、私が直接知っている彼じゃないから。
どんなに短くても、どんなにくだらないことでも、他から知った彼より、私が知った彼の方が、何倍も本物だから。



今日は幸せな夢を見られそう。
読み終えた本を胸に抱え、私は小さな溜息を吐いた。
幼馴染みの2人が、身分も、反対も、恋敵も押しのけて、幸せな結婚式を挙げる。
舞台はヨーロッパだし、時代は中世だし、現実にはドラゴンなんて出てこないけど、
それでも私の頭の中は、彼と私の姿をした2人の物語が、ハッピーエンドで幕を閉じている。
想像した幼い彼と、想像した大人になった彼と、多分に美化された幼い私と、理想が過ぎる大人になった私と。
ポスンと音を立てて、枕に頭を埋める。枕下に本を置いて、ゆっくりと瞼を閉じる。
きっと今夜は、火を噴くドラゴンから私を護る、素敵な彼の姿を夢見ることが出来るだろう。
テニスコートに立ったときのように真剣な顔で、あの力強いボールを放つラケットの代わりに剣を携えて。



夢の中で、恋愛小説の中で、私と彼は恋をする。
それでも現実は、何も変わることなく、またこうして、金曜日の放課後になる。

「お願いします」
静かな図書室で、少し押さえた、彼の声。
私の心臓はやっぱりドキンと鳴り響いて、この大きすぎる鼓動が彼に聞こえやしないかと、緊張する。
聞こえないことは、今までの4ヶ月が証明してるけど。

1学期最後の金曜日。
来週はもう夏休みで、2学期になれば、このシフトは変更され、もう、こうして金曜日の放課後にカウンターに座ることはなくなるだろう。
毎週金曜日に本を借りに来る彼との、短すぎる時間も、これが最後。
本と貸し出しカードに添えられた彼の手を見ることも、耳に残る声を聞くことも、
彼が去った後、いないはずの図書室で、彼の姿を探すことも、なくなる。
それでも私はきっと、これからも、図書委員という特権を利用して、彼が読んだ本をなぞる、妄想の旅を続けるのだろう。

「返却期限は、来週の金曜日です」
この言葉を言うのも、きっとこれが最後。
だから私は、いつもよりゆっくり、丁寧に、少しだけ大きな声で、彼に伝えた。


「ありがとう、さん」


突然呼ばれた自分の名前に、思わず顔を上げた。
そこには、微笑んでいる、彼が、いた。
それは、昨日夢に見た、剣を振り回しながら、ドラゴンと闘う彼じゃない。

ここは、いつもの図書館で、いつもの会話は終わったのに、
……彼は、ここにいる。


彼の指、彼の文字、彼の声、彼が読んだ本、彼の名前。
そして、彼の笑顔を、私は、知っている。





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