他愛もないことを報告したり、わざわざ用事を作って、会う約束を取り付ける必要も、いらん。
メールの受信ボックスや、着歴を、何度も確認する必要も、いらん。
部活で疲れた後に家事や宿題をして、わざわざ休日を開ける必要も、いらん。
遅く起きてもえぇ日曜日に、目覚ましをセットする必要も、ネットや雑誌で話題の場所を探す必要も、いらん。
怠惰で、何の意味もない、そんな日常が戻っただけや。
それやのに、何で俺は、前以上に、虚ろで、空しいんや?
最低 4
テニスが好きで、黄色いボールを追っている間は、夢中になれたはずだった。
部活が好きで、ラケットを握っている間は、それだけに集中できたはずだった。
だが、大好きなテニス部の時間、目に入るのは、跡部景吾。
トップに君臨し、一度として勝てたことのない、その男。
一番大切だったはずのテニスでも、前にいるのは、跡部景吾。
そして、一番欲しかった彼女の大切なものに、余所見をしながらでも、あり続けるのも、跡部景吾。
友情、尊敬、仲間、憧憬。
そんなものの対象だった跡部に、忍足は初めて、それ以外の感情を抱いていた。
嫉妬、苛立ち、羨望。
憎悪まで感じてしまいそうな自分に、忍足は嫌気がさしていた。
最初から解っとったはずやろ?
跡部は「大切な婚約者」で、俺は「最低」や。
今更、やろ?恨んでも、妬んでも、何も変わらへん。最初から最後まで、ずっと一緒や。
「しけたツラしてんじゃねぇよ」
今、一番話したくない人物に話しかけられ、忍足は素直に表情を歪めた。
「…ったく、お前といい、といい。いい迷惑だぜ」
「もう、お前さんの婚約者にちょっかい出したりせんさかい、安心し?」
まったく覇気のない顔で言った忍足に、跡部は大きな溜息をつく。つい先日、同じような表情を見たばかりだ。
「あのな、忍足。確かには俺の婚約者だが、それが関係あんのか?」
「大アリやろ。結局は、そういうことなんやから」
「…他の男のもんだとか、婚約してるとか、そういうことを構えなくなるくらい欲しいと思ったことが、お前にはねぇのか?」
「……しゃぁないやろ?」
他の男のもので、婚約までしていて、それが問題なのだ。
「まぁ、俺様には関係のねぇことだがな。今頃あいつは、新しい男でも探してんじゃねぇのか?」
「新しい、って…」
「お前がを諦めたんだ。あいつが何しようと、誰と寝ようと、お前には関係ねぇよな」
俺様特有の笑みを浮かべ、跡部は、忍足を見た。
新しい男?
が他の男と仲良うなって、メールしたり、電話したり、デートしたり…。
が、他の男と寝る…?
「冗談やない!俺は他の男に譲るために、諦めたんちゃうで!?」
「なら、何で諦めたんだ?俺だって、お前の言う、他の男だぜ?」
「俺が、俺が諦めたんは……」
手の中にあるラケットのグリップをぎゅっと握り締め、忍足は言葉を続ける。
「俺が諦めようしたんは、の大切なものを壊しとうなかったからや」
「ほう…。で、お前はその、あいつの大切なものが何だか、知ってんのか?」
「…何を言うてんねん」
の、真に大切なものであるはずの人物にそう言われ、忍足は、俯いていた視線を、目の前の人物に見据える。
「少なくとも、俺は、あいつの一番大切なものじゃねぇぜ」
「……どういうことや?」
「後は本人に直接聞け。失いたくねぇもんなら、諦めようとしたり、手を離そうとしたりしてんじゃねぇよ」
持っていたラケットで忍足の肩を軽く叩き、跡部は着替えるため、部室の中へと入っていった。
どういうことや?
の大切なもんは、失くしたくないもんは、跡部やないんか…?
バンッ、と、勢いよく部室のドアを開けた忍足は、驚く仲間達にも目をくれず、そのまま自分のロッカーに走った。
制服をスポーツバッグに詰め込み、学生鞄と、そのスポーツバッグを抱え、練習着のジャージのまま、部室を飛び出した。
突然の奇行に目を丸くする仲間達も、得意げな顔で着替えを続ける跡部も、彼の視界には入っていなかった。
走りながら、携帯電話を取り出し、その番号を押す。
何度も消そうと思い、指を掛けて、どうしてもボタンを押すことができなかった、その番号。
「……何で電源入ってないねん!」
役に立たない携帯をポケットに突っ込み、大きなスポーツバッグを肩に下げ、忍足は、走り続ける。
「失いたくないものは、最後まで縋りつきます。泣いてでも、しがみついてでも、どんな手を使っても」
初めて会ったとき、が言った言葉が、彼の頭の中で繰り返される。
、今、ようやっと解ったわ。お前さんの言っとったこと。
縋りつくんやろ?
泣いて、しがみついて、どない情けなくなっても、大切なもんは失ったらあかんのや。
一番大切なもんには、どないなことをしても、最後まで縋りつかなあかんのや。
そうやろ?。
自分の家の前に座り込む、その姿を見たとき、は自分の願望が見せる幻だと思った。
だが、初めて見たジャージ姿も、に気付き顔を上げる彼も、幻などではなく、本物だった。
「忍足君…?どうしたの?」
驚きの表情を隠せないに、忍足は立ち上がり、近寄る。
の学校へ行ったら、帰った後だった。彼女が良く行く本屋や喫茶店を探したが、見つからなかった。
結局忍足は、跡部に助けを求め、の自宅を教えてもらい、ここまでやってきたのだ。
「…忍足君?」
「どないしても聞きたいことがあるんや」
「…何?」
表情を曇らせ、不安げな瞳をするに、忍足は胸が痛むのを感じた。
にこんな表情をさせているのは、自分自身だ、と。
「…の大切なもんは何や?」
「え…?」
「言うとったよな。失いたくないもんは、最後まで縋りつくって」
「何を今更…」
もうすべて、終わったのだ。そう、忍足の視線から逃げるの肩をつかみ、忍足は、自分から逃げた視線を無理矢理戻した。
もう、目を背けんのも、誤魔化すんのも、おしまいや。
「ずっと、の大切なんは、跡部やと思っとった。跡部が他の女と寝とっても、それでも失いたくないくらい、大切なんやって」
「……」
「せやけど、ほんまにそうなんか?は、ほんまにそれでえぇんか?」
「…今更、忍足君には関係のない話でしょ?お互い、暇潰しだったんだから」
溢れそうになる涙を必死に押し留め、は忍足を見る。
の瞳が、揺れている。
あん時も、あの映画館の外で終わりになったあの時も、の瞳は揺れてたんとちゃうか?
真っ直ぐな瞳で、自分を「最低」と言い、大切なものを失いたくない、と言っていたの瞳を揺らしたんは…。
の大切なものを壊したんは、誰や…?
「。俺は、ずっと跡部が羨ましかったんや。の大切なものでい続ける、跡部にずっと嫉妬しとった」
「嫉妬、って…」
ぎゅっと掴まれた肩が、少しだけ痛い。
だが痛さよりも、そこから伝わる熱さに、真っ直ぐに射貫かれる瞳に、はすぐに逃げ出したかった。
「ずっと思っとった。の大切なもんになりたいって。せやけど、は跡部が大切なんやから、言うたらあかん、って」
「……」
「な、、教えてや。が大切なんは、跡部なんか?失いたくないんは、跡部なん?」
「…そんなこと、知ってどうするの?」
「別にどうもせぇへん。ただ、知っときたいんや、自分が闘う相手は誰なんか、を」
「闘う、の…?」
揺れ動く瞳で自分を見るに、忍足は優しく微笑んだ。
「そや。俺はを諦めるつもりも、他の男に渡すつもりもないんやから、後は闘うしかないやろ?」
「当人の、私の意見は無視なの?」
「せやから、今こうして聞いとるんや」
肩を掴まれた手は、もう痛くない。真っ直ぐな忍足の瞳ももう、怖くはない。は、ただ少し、くすぐったいだけだった。
「…浮気性の男は嫌」
「せぇへんって。だけや」
「可愛い女の子に泣いてお願いされたからって、すぐに寝ちゃうような男は、嫌い」
「どこにおるんや?そんな最低男は」
とぼけるように言ってのけた忍足。
「やっぱり、最低」
そう言ったの顔は、笑顔だった。
ずっと見たかったの笑顔に、忍足はその柔らかくなった頬に、自分の手を当てた。
「他の女の子なんか見ぃひん。いくらお願いされても、や。絶対に失いたくないもんがあるんやから」
「……変な感じ」
「何がや?」
忍足が頬に触れた途端、そこを少し赤く染め、視線が泳ぎだすに、忍足は優しく聞き返した。
手は頬に触れたままで。
「ずっと、恋人みたいなことしてたのに…」
「そやな」
毎日メールや電話をして、休日はデートし、時には手を繋いだり、腕を組んだり。
そんな時間を半年以上も一緒にいて、それなのに、初めて素直に、こうして向かい合ったような気がする。
目を背けず、誤魔化さず、嘘をつかず、自分の心を素直に伝えるのは、初めてだろう。
「せやけど、これはしたことないやろ?」
近付いて来る忍足の顔に、は素直に瞳を閉じた。
「、好きやで」
軽く重なった唇が離れたとき、は忍足の背中に手を回し、その肩に顔を寄せた。
背の高い忍足に、はぶら下がるような形となり、爪先立ちだった。
それでも腰と背中をしっかりと支えられたは、少しも苦しくなかった。
「私も…」
一番大切なものは、まだ判らない。
けど、多分、この温もりの先に、それがあるような気がする。
すがりついて、泣いて、それでも失いたくない何かが、ここに産まれるような気がするの。
今はまだよく解らないけど、でも、今まで知らなかった想いが、私の中にあるから。
だから、この先の未来へ続くこの温もりが、今は、大切。
大切なもんを、見つけた。
皆同じ、大切な女の子やのうて、一番、大切な女の子や。
怠惰な日常も、意味のない時間も、すべてを大切なもんに変えてくれる存在が、今、俺の腕ん中にある。
まだ見つけたばかりや。
けど、縋りついて、泣いて、どないなことをしても失いたくない。そう思えるんや。
ここは、天下の公道。
それでも、たった今始まったばかりの恋人達にとって、大切なのはそんなことではない。
大切なのは、ただ、そこにいる、ということだけ。
声を聞き、吐息を感じ、鼓動を確かめられるその場所に、大切な人がいるということだけ。
「最低」
そんな言葉から始まった、ひとつの恋は、漸く今、同じ方向へ一緒に歩き出した。
本当に大切なものを知らずに、「それに縋りつく」と言った彼女は、大切なものへと繋がるものを手に入れた。
「皆同じように大切」と言った彼は、縋りついても失いたくない、一番大切なものを見つけた。
今はまだ、大切な関係へと続く道を歩み始めたばかり。
この2人の「関係」が「大切なもの」になるのは…、もう少し後のお話…。
ちょっとした、オマケ